うたたね

浅いが意識を失うような眠りから覚めてくあ、と一つ欠伸をした。左の肩甲骨から二の腕の辺りが痛いのはそちらを枕にしていたからだろう、池沢と大人ではない声に呼ばれる自分の名字に未だ慣れずにいる、小学校高学年のときにはまともに名前を呼ばれた記憶がないからだろう。その前はおぼろげだが下の名前だったような気がする。教室移動を伝えた学級委員は担任に頼まれでもしているのだろうかたまに声を掛けられる。どこかの部の部長をしていたと定かではない記憶意外佳主馬は彼のことをよく知らなかった。霞む視界で見回すと教室に残っている生徒もまばらで、眼下に見えるグラウンドのからも戻ってくる生徒が目立っている。土埃が上がってきたのかそれとも視覚的なものかくしゃみが出そうになるのを鼻頭に皺を寄せてこらえる。予鈴に気がつかなかったのは佳主馬だけらしかった。遅くまでゲームをしていたせいだろう。礼を言おうと振り向くとすでに彼は廊下に出るところで、あまり大きな声にならなかった言葉は届いたようには思えなかった。
みんみん、と必死であるはずなのにどこか緩慢に聞こえる蝉の声はもしかしたらそろそろ秋を告げるものに変わるのかもしれない。しかしまだ強い日差しにはその気はほとんどないらしかった。もう一度欠伸をした佳主馬はやっと椅子を引いて教科書を取り出す。理科第一教室はそう遠くない。書き込みも折り目もない薄く硬い本にはまだ真新しかったときの匂いが残っている。
冷たい重みに外から感じる太陽の匂いが顕著になって浅い眠りに、失った意識が浮上する直前に見た夢のことを思い出した。夢だったのか思い出の反芻だったのかそういえば夏休みになってから一度も会っていないかもしれないと何度か遊びに行った場所の、真夏の濃い緑の匂いを思い出す。いつだって裏口からしか訪ねなかったけれど同じ敷地にいたときだってそうしていたのだから同じようにとはいかなかったけれど迎え入れてはくれた。そういえばアイスはまだあるのかと訊いたら嬉しそうに、まるで待っていたとばかりに差し出された。どうしてか真夏日にこっそり食べたときのことより秋風に寒い寒いといってソーダアイスを齧ったときのことを話した。あの日は本当に寒かったのにどうかしていたと言った佳主馬にでも楽しかったね秋口にも買っとくからとその人は嬉しそうだった。昔から秘密基地やなんかでこっそり悪いことをするのに憧れていたとかなんとか。佳主馬が訪ねていた場所はもちろん秘密基地などではない、むしろ程遠い場所だったし佳主馬が正規ではないにしても来客として訪ねているのならばアイスをふるまうこともふるまわれることも悪いことかと言われれば微妙なことかもしれなかった。
確かにその場所で今も義務教育を受けている佳主馬よりも年齢が低い子どもに見つかれば教育に悪いと言えるのかもしれないが。冷たさを思い出すように鳴った喉元に砂の混じった風が吹く。気付かないうちに汗をかいていたらしい。ひやりとした肌に首をすくめた。
古臭いが急かす音は予鈴が鳴ったとするならば授業開始の合図だ。ぱたぱたとまだ軽い身体に若干の不満を覚えながら走りだして、どうして夢に見たのかを思い出した。自分はやはりしっかりと予鈴を聞いていたのだと、もし可能ならまたあの裏口の戸を近いうちに叩きに行かなければならないと上靴を鳴らした。




   きせつだより
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