におい
成長期を迎え追い越すかと微かに期待しても怖がってもいた身長は結局健二より伸びることはなかった。子どもの頃のように見上げることはなくなってもいつも彼の視線は上から落ちてくる。いつまでも広く見える背に身を寄せたくなったことがあることも握った服の裾を離したくなかったことも内緒にしている。今だって咄嗟に握り返そうとした自身を押しとどめるのに必死だった。諦めたはずの想いは抑え込んでいただけだったのかそれとも動揺のあまり体まで制御がきかなくなっているのか。またも唇に触れられたのは熱くなった頬だった。いやいやと首を振る動作は子どものようだとわかっている。
健二の唇はやはり乾いていて自分の頬が熱くなりすぎているせいなのか温度がわからなかった。まるで試されているようだと思う。健二は好きだったと言っただけで今の佳主馬については一言も発していない。酔いに任せてふざけているだけかもしれない、自分のゆるやかな、受け容れることが前提のような拒絶もそう思われればいいのにとか考えながら視界を閉じた。街灯の名残が目の奥でちかちかとまたたく。酒の匂いが残る呼吸がすぐ側にあるのを感じる。止めていた呼吸を耐えきれず開放すると喘ぐような荒い息で、きっと自分のそれも健二と同じように慣れない匂いを纏っているとまともに利かなくなった鼻の代わりに思考した。冷たさと熱さの同居に耐えかねて震える背を骨ばった手が撫でた。右手の中指はペンを持つせいで膨れて固くなってしまった部分がある。薬指のささくれが気になると言った。そういうことでなぞっているものの形まで思い出している。
「佳主馬くんは変わったよね」
「え」
中学生になってちゃんと学校に行くようになったし背も伸びたし声変わりもしたし合わなかった学ランがぴったりになって、高校生になって女の子と付き合うようになったり友達と遊びに行くようになって、大学生になって香水が変わってたまにお酒を飲んだりして襟足も伸びた。襟足が伸びてるのは切ってないからだよと返してしまったのはほとんど反射のようなものだった。思考は追いついていない。ああそう言えばそうだったかと外面的な変化は自身よりたまに会う健二の方が気付くことが多いのかもしれない。右肩に重みがかかって伸びたといった襟足に息がかかる。くすぐったさに揺れた肩を少し笑われたらしい。
「こういうことの意味も、僕がしない間にわかるようになって」
問いかけではなくまるで台本を読むような断言はしかし佳主馬にしか聞こえない、耳元で話したからこそ拾うことのできた呟きだった。思わず目を開けた佳主馬が見に見えたのは健二の跳ねた後ろ髪と黒く見える広葉樹の葉とそれだけ眩しい街灯と、そういうものだけだったが、やがて健二の後ろ髪は抱きすくめられたせいで視界から消えた。圧迫された胸で息をするのが少し難しい。一度咳き込んだ佳主馬の背を右手があやすように数度叩く。返すように健二の背を撫でた。伸びた身長で縮まった距離が猫背を確かめることも今は白衣ではないジャケットを握ることも容易にした。
健二が呟いたままの「最悪だ」の意味をまたも測りかねて混乱する。からかわれているのなら佳主馬にとっては確かに最悪なことだ。過去を告白したことが最悪だというならきっと言われなければ佳主馬は気がつかなかった。自分の過去の想いにも時折思考をざわつかせることにも気付かなかったふりをして何事もなく健二と友人でいたはずだ。そう思っていたのにまるで抑えていた分の想いを遂げるように背中を握る手に初めて自分を疑った。距離が離れたと感じると数行のメールを送ったことも思い出したように掛ってくる電話に緊張して嬉しかったことも恐らくは寂しかったからだ。毎日会える距離にその妙に落ちつき払ったようなしかし子どもっぽいような声がないことも緩んだ目で見下ろす視線がないことも。
「成人したら、笑い話に使えるなら話そうかなと思ってたんだ」
「僕笑ってないけど」
なんで笑わないのと返す健二にじゃあもっと冗談っぽく言ってよと佳主馬の要望は却下された。冗談にならなくなったときのことを考えていなかったと掻き混ぜられた思考の中で落ちた言葉を吟味するには時間がかかった。耳に掛る息がひどくくすぐったい。
「冗談」
「笑えない。佳主馬くんすきだよ」
笑って、と初めて聴く声で言われた。柔らかく、軽く、どこか取り巻くように掴みどころのない大人の声ではなかった。鳩尾を引っ掻くように懇願する生々しい声に下腹に力が入る。おそらく佳主馬の恩師として友人としてのふるまいをしていない、許容範囲を越えたものを拒絶するなら今だと、笑い飛ばして押しのけるなら今だと宣言されたのをどうしてか明らかに感じた。
健二の考えていることなんて今の今までわかったことがない。合わせられている気遣われいると知ったのは最近だがそれがなければ離れてしまっただろうと感謝をしている。その距離を一つ、追いつめられるようにして縮められた。この人はこんな人だったかとぶるりと震えた佳主馬の緊張が伝わったのか肩が軽くなる。くっついて熱を持っていた場所に風が吹いた。
「笑ってもだめか」
嫌なことは嫌って言うのに困ったことは言わないで我慢するんだからと離れた健二の笑顔も声も元通り大人を模していた。自分に好きだと言ったときの顔を知らないとどんなだっただろうと見上げた佳主馬に首を傾げる。困っても我慢してもいないということに気が付いただろうか。返答を予想だにしていなかったらしい、笑えないし僕もすきと言った佳主馬に口も目も開けてしまった。その顔だったら笑うことができるかもしれない、思ったのに脈打つ心臓を治める酸素を集めるために必死だった。空気までアルコールが混じっているように効果は芳しくない。
もう一度内部を揺らすような声で言ってほしかった。見上げる自分がどんな顔をしているのかわからない。
ただ先の健二を佳主馬が知らなかったように健二も知らない佳主馬かもしれなかった。抑えていた想いは確かに何度か諦めている。その度に芽生えたものはもしかしたら以前のものとは違うのかもしれない。腕時計の質感を知らなかったように猫背を初めて撫でたときのように新しい部分も触れるように確かめたかった。
「佳主馬くん」
「口にもしてよ」
嫌だったら舌を噛むからと言った佳主馬に今度は健二が目を逸らした。頬も首も、確信はないが酔っていると思ったときより赤く感じた。したいと言ったときには佳主馬を動揺させておいて自分は平然としていたくせに、今度は佳主馬が目と口を開く番だった。三十を越えても出逢ったときとあまり変化がないように思えるのは童顔のせいだけではなくこういうことろかもしれないと思える。
「あ、いや。嫌だったら噛むって言うのはできたらやめてほしいかな」
そういうの僕興奮する。言われた佳主馬が処理をしきれないでいるうちに一度唇に暖かく乾いたものが触れた。半開きにしていたから下唇に近い場所だ。
健二さんってやっぱりちょっと変な趣味のひと、と再確認した佳主馬に返ったのは過去を仰ぐようなやわらかな否定ではなく、遠くを見る視線ではなく、力を入れて肩を掴む手と虹彩の内側を舐めるような視線だった。ひくと筋肉が引き攣って、今度は結ばれた口元を開くように結ばれる。頬に痛いのは眼鏡のフレームかもしれない。外してと訴える前に入ってきた舌におそらく犬歯をねだられた。
唾液の間から吸った息にアルコールではなく夏に向けて繁り始めた緑の青々とした匂いが混じる。中庭で踏んだ雑草を思い出した佳主馬の、記憶の中の香りなのかもしれなかった。
きせつだより
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