こくはく
健二の発した言葉に佳主馬は咄嗟に反応することができなかった。咄嗟に、というよりたっぷり十秒は口を開けたままでいたかもしれない。そんな佳主馬の表情に目の前でつい今しがた、目を細くして都会の薄い夜を見ていた銀のフレームの眼鏡がようやく似合うようになってきた男は、童顔で下手をすれば高校生だとからかわれていた歳からそのままに困ったように眉尻を下げて笑った。
「そんなにびっくりされることだったかな」
びっくりも何も、その言葉すら佳主馬の口から出ることはかなわなかった。驚きを通り越して怒りすら湧きそうな頭を停止させることが唯一の防衛手段だったのかもしれない。奥歯を噛んで、じわりと背中に汗がにじんでいることに遅れて気が付いて、握りしめた拳の中で切り損ねたままになっていた爪が肌を傷つけるかと思えるくらいに食い込んでいることは彼自身まだ意識の外だった。
「冗談じゃないからね」
一目惚れだった、とまるで佳主馬にはわからない、例えば大学時代の友人だとか高校時代の憧れの人だとかそういう遠くを見て話す、そのときの表情をしていた。
咽喉が渇いている、こくりと嚥下したはずの唾液は粘度ばかり高く食道を潤すことはしない。摂取した水分はどこへ行ってしまったのか。アルコールを追い出すために一気に流し込んだのが水ではなく烏龍茶だったのがいけなかったのか。親戚の集まりで舐めるように口にしたことはあってもコップ一杯の量を身体に入れるのは初めての、味も匂いもまだ子どもの方に近い味覚には奇妙な液体に、佳主馬の身体は簡単に火照ったけれどそれほど弱くはないはずだ。現に健二がおかしなことを言い出す前まで頭はすっきりとしていたし、ひんやりしていたはずの夜風も体温が下がって生温いと感じるくらいにはなっていた。
今はどうだろう。温度がわからない。ただ首元に纏わりつく風に放っておいたままの襟足が揺れて肌をなでるかなでないかの距離でつついた。くすぐったかった。
「僕あのとき小学生だったと思ったけど」
「そうだね」
健二と佳主馬が出会ったきっかけはありふれているといえばありふれている。小学校の先生とその生徒、ただ担任というわけではなく健二が養護教諭で佳主馬が理由あってほとんど保健室登校していたことで、例えば佳主馬が成人した祝いに今も、学校は違うが変わらず養護教諭をしている健二が酒をおごるくらいに親しくなった。疎遠だった時期もあるにはあったがどうしてか長くは続かなかった。歳月にすれば二桁には届かないが、それでも佳主馬にとっては人生の半分近く付き合いが続いている友人というのはほとんどいなかったから、長いと意識している。
歳の離れた友人、恩師と呼ぶには出会った頃の印象そのままだからか距離が近く、兄と慕うこともできずにいた。それはひとえに佳主馬の心情に起因するものだったが、一時期患うように熱を上げた感情のことはすっかりしまいこむことにした。
この人いつまでも結婚しないな、僕の方が早いんじゃないかと自分の、高校時代から数えて片手の数より少ない恋人の数と、人生で一度きり、高校時代に恋をして曖昧な付き合いがあったのかなかったのか、それ以来数学しか恋人のいないと本人は言う健二を比較してそんなことを思っていた。
けっこんをかんがえているひと、などと誰か見知らぬ女性を紹介されればそれはなんとなく、きっともやもやとしたものが胸の内に渦巻くだろうけれど当然のように忘れられると思っていた。会う度顔を見ることができなくて鼓動が息苦しく喋ることもままならない、とそんな思春期の気の迷いのような症状は治まってしまっていたのだから。たまに発見する、今日ならばお酒は弱いと言う癖に強い酒をちびちびと舐めるように飲むだとか。頬より目元にアルコールが回っているかどうかが見えるとか。そういったことも冷静に、とは言い切れないけれど変わらない呼吸の速度で発見して、からかうことまでできるようになっていた。じりじりと温度が下がったのは成長のためなのか本当にしていた恋の終わりか、どちらか考えたことはなかったけれど。
かち、かちと耳慣れない音に意識を戻すと柔らかな笑みが浮かべられていることの多い口には今までに見た経験のないものが咥えられていた。オイルが四分の一ほどに減ったライターは火花を散らすばかりで、健二の手も体温が上がったせいで言うことをきかないのか五回目でも機嫌を損ねたままだった。居酒屋でもらったマッチで佳主馬が白い紙の筒に炎を近付ける。こんなに早く使うことになるとは思わなかった。煙草に火を付けるには息を吸うのだという。生温い空気が僅かに動いた。ふらふらと揺れた煙が佳主馬の鼻も刺激した。
「煙草、吸うの」
これまでの付き合いで知らなかった。告白に返した言葉よりどうしてか責めるようになった佳主馬に答える前に健二が盛大に咳き込んだ。よく見れば涙目になってもいる。
「はじめて」
「は」
小学校には喫煙所はない。少なくとも生徒の目に付くところは全面的に禁煙だろう。居酒屋では禁煙席に座った。煙草の箱は新品ではなく数本減っていた。赤い箱のマルボロは確か高校生の頃度々教師に呼びだされていた素行の悪い友人が一本すすめてくれたものと同じ。スポーツをする身体には悪いからと断った。だから、知らない間に愛煙家になっていたのだと思っていたのにどうもそうではないらしい。似合わないから止めなよと眉を顰めた佳主馬にそうだねそうかもと笑った健二はやはりどうして持っているのか携帯灰皿にまだほとんど灰を落としていない煙草を押し付けて片付けた。
「佳主馬くんもお酒飲むから、僕も一緒になんかやろうかなと」
禁煙すると宣言した同僚から一式貰い受けたとでも結局使わないなら勿体ないと鞄に仕舞う。
「ばかじゃないの」
「そうだね、良いと思ったんだけど。数学する人には多いし」
「どこの統計」
「え、僕の大学のときのゼミ?」
「三人しかいなかったって言ってた」
あれ、佳主馬くん知ってたとへらへらしているのはもしかして酔っているのだろうか。訝しげに顔を見た佳主馬にまた唐突に健二がすきだったんだよ。佳主馬くんが卒業するまでずっと片想いしてたんだと言う。佳主馬はまた何を返したらいいのかわからなくなってただ唾液を嚥下した。ああ、ちょっとだったのに佳主馬くんまで煙草臭い、とどちらが本題であるのか何に答えればいいのか混乱する原因は健二にもあるように思える。
「健二さんって、そういう趣味のひと?」
からかいなのか、もしかしたら真剣な問いかもしれないぽろりと零れた言葉に違う違うとその否定ではじめて慌てたように首を振る。くらりとしたらしい。あ、と言ってベンチに預ける背の面積を多くしている。やはり酔っているのかもしれなかった。
「なんで」
なんでだろうねえ、ひとめみたときからきみがすきだったよなんて聞いたこともないような台詞で愛を告白されているのか、過去形なのだから過去の日記を読んでいるような気分なのか健二の目元はずっと赤いままで、それが緊張によるものか羞恥によるものかそれとも酒がまわったままなのか判別がつかなかった。
「みたことない顔してた」
「なにそれ、変な顔だったって」
「ちがうよ」
泣くのを我慢するときがすごくきれいなんだ。佳主馬くんにしたら大変だったときに失礼な話だったかもしれないけどと語る健二は隠してきた宝物をそっと見せるような丁寧さと低い声で語るが佳主馬自身には彼が見ていた自分のことは見られないから何を思い浮かべているのかそしてどうして感情が動いたりしたのか甚だ疑問だ。へんなのと呟いただけで舌が動かせなくなった。どの言葉を選べば正解なのか、選ぶ言葉すら考えられずにいるのかじわりと涙が滲んだのは混乱のせいなのかもしれなかった。酔いに任せて誤魔化せないかと相手も酔っ払いなのだからと思って向き直った健二の目はしかしまっすぐに、先までの何かを振り返る老成した表情ではなくそれよりずっと距離の近い、そう言えば小学生のとき、今よりまだ小さく体育のときはクラスで一番前だったり二番目だったり健二のような大人とは距離の遠かった佳主馬のはずなのに近くに傍らに、寄り添うように感じたそのときと同じ視線が向けられていた。物理的な距離も近付いているような気がして、古くはないが簡素なつくりのベンチが軋む。
「泣かないでよ。嫌だった。ごめんね」
「泣いてない」
弁明しようとしただけのつもりが涙声になった。引き寄せられて今は少し煙草の残り香のする胸元に顔を埋めてしまえば子どものように泣いてしまえる気がした。今日は成人を祝うという名目でいるのに、子どもの頃は頑是なさを見せることが弱みを握られることと同義であり子どもであると認めてしまう行為だと思えていた。あの頃より成長をすれば今度はその甘えることの立場が羨ましい。ぎゅうと頬を押し付けて声を上げたのは想像の話で実際はぴりりとする厚い皮膚の親指が目元を拭った。乱暴ではないのに酒のせいか落ちた宵闇のせいか流れるような動作とも言えずに目尻が痛かった。いたい、と口だけで伝えた佳主馬の意思を健二は見たのか見ていないのくらりと歪む視界では確認できなかった。額に唇が降る。乾いた感触だった触れたか触れていないかもわからないほどの軽いそれはしかし乾燥した皮膚の、それも彼の薄い唇の部分だと気が付いた。その接触の感覚を佳主馬は知っていた。覚えている、というよりたった今思い出したようにそのままのキスを健二から額に受けたことがある。それはいつかまだ佳主馬が健二を兄と、教師と、それからよくわからない友情のようなもので慕っていた、そう思い込んだ恋でもなく恋になりうる何かでもなく間違いなくただ慕っていた頃に一度だけ知ったものと同じだった。そういえばあれは何の挨拶だったか。佳主馬にとっては別離の挨拶は口で言葉で示した。健二のそれは何と過去の自分は捉えたのだったか受け取ったのだったか。そういったことを挨拶にするという習慣の家系には育っていない教師が生徒に対して問題を起こすとかそういった事件を完全に理解していたわけではないが知らないわけでもなかった年代だったがその可能性は全く考えなかった。それならば何を思ったのか、どういうものとして受け取ったのか佳主馬は何も覚えてはいなかった。短い人生の中ではずっと前の話だ。健二にとってはもしかしたら時間の距離は短いのかもしれないがそれを体感することもまだない。ただあの時と同じだと肩が揺れ、咄嗟にそれこそ以前の幼いままの視線で目を見開いて健二を見上げた。それだけだった。同じ顔をしていると健二が笑う。やはり覚えているらしかった。恋をしていたなら忘れていないのかもしれないけれど。今とは違う佳主馬を健二はよく知っているらしい。
「あのときほんとは口にしたかったんだけど」
頬に血が上った。何を言うのかと口を開けしかし言葉は出ない。十二歳の子どもに何をしようとしているのだとか額だって本当はだめだったんじゃないかとかぐるりと頭のなかをめぐるだけで吐き出すことができるほどかたちにはならなかった。拒絶をしたらいいのか震えて上げかけた右腕を取られる。爪を掠った腕時計が銀の金属製だったことをたった今知った。そう言えばいつもは白衣の袖に隠れて見えなかったのだ。酔いは完全にさめてしまって背中から冷たい汗が伝っている。伝うと言うより一気に湧くようだ。血の気の引いた身体は寒くしかし首から上は火照っている、奇妙な眩暈に震える佳主馬の掌をなぞり指と指が絡むようにぎゅっと握られた。湿っている場所がひどく羞恥をあおって俯くと上から影が落ちた。
きせつだより
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