ねつ
遠くで電子音なのか鐘の音なのか、未だに判別のつかないチャイムの音を聞いたような気がしてくっつき合っていた瞼同士を引き剥がした。口の中も乾いているから声が出ない、と何度か唇を開けて、閉めて、とした佳主馬にやっと起きたと声がかかる。頭を回した佳主馬の視線が追いつく前に身を翻した彼はどうやら古い冷蔵庫を開けた。ちりちりと硝子のぶつかる音は例えば長野の家でよく耳にしたものだ。この保健室に麦茶がなんてあったかなと思い返して自分の身体が、例えば授業を抜けて、熱を出してこのベッドを使ったときよりも幾分成長していることを確認する。ベッドの上ではなく椅子に座って半身だけうつ伏せるようにして眠っていたらしい。窮屈だったのかまだ新しいと言える部類の革靴はリノリウムの床にいつの間にか脱ぎ捨ててある。履く気にはなれずにもう足の浮かない椅子でそれでも膝を上げてみる。ぐらりと揺れて掴んだシーツは自分の体温が移って暖かい。視界の揺れに何かが重なったような気がしたが窓の外が陰っているという視覚情報にかき消されて次に瞬きをしたときにはすっかり忘れていた。
「転ぶよ」
「麦茶つくるようになったんだ」
「うん、最近。結構難しいね」
麦茶など母か親戚か、いわゆる親となった人の作ったものしか口にしたことのない佳主馬は実感もなくへえと吐息と同じように掠れた音を洩らして、三つ氷の浮いた一杯を受け取った。香ばしさとちくちくとした冷たい刺激が喉元を過ぎる。目を瞑った佳主馬にやっぱりあんまり美味しくないよねえとのんびりと笑ったような声が降った。
「沸かしてあったかいままのときは美味しいんだけど」
「水道水で作るからじゃない」
「えー」
わざわざミネラルウォーターは買ってこられないと肩を竦めた小磯だったが正直舌も咽喉も乾いている佳主馬には味の違いはわからなかった。長野で飲む麦茶は薬缶で大人数分適当に沸かす、と母が言っていたのに舌触りも香りも普段飲んでいるものとは違った。彼が思い浮かべている麦茶とはそんなものだろうか。
一気にコップの中身を空けて寝ていたことを謝る佳主馬に、今日はお客さん少なかったから大丈夫とベッドに座った小磯は振り向いて窓の外を見た。下校する児童の声なのか、ころころと笑う細い音がどこかで上がってはすぐに聞こえなくなる。
「さぼり」
「ごめん」
いつも怒られるねと肩を竦めて人差し指を唇に当てる。誰に告げ口したらいいのという佳主馬にそうかそうだよねと視線の高くなった彼の逆光に移る口の端だけが上向いたのがわかる。疲れてたのという問いかけに別にと返したけれど緊張していたのと問われれば同じように言えたかどうかはわからない。うたた寝が過ぎたのかぼうと火照った頭を振って確か話の途中で懐かしい洗濯洗剤か、柔軟剤かの匂いに意識を溶かしたことを謝った。数ヶ月前まで佳主馬にとってはひどく馴染みの匂いだった。今通っている中学の保健室のそれがどんなものか知らない。
「いいよ、今は常連さんもいないし」
「いいことじゃないの」
そうだけどね佳主馬くんがいないってことだよと目尻を下げられて耳が熱くなる。こんなときどうやって返していたのか大して時間も経っていないというのに思い出せなかった。そうやって手に汗を握って上手く話せないと何度か唾を飲み込んで、そうしたものがほぐれたと思ったらだらりと身体を預けたベッドで眠ってしまっていた。壁に掛った時計はもう小学生の下校時間を示している。
「そういえば今日」
「さぼったんじゃない。午前中だけで終わったんだ」
そういうわけじゃないと小磯は目元だけ皺を寄せる。長い日が落ち始めてそうして蛍光灯すら明かりを落としていると気が付いた。電気はという佳主馬に起こしたくなかったとベッドの軋みが減って白い光が目の奥を刺激し、眩しさにもう一度とシーツに頬を擦りつける。起こしたら僕が帰るまで誰もいないからねとその言葉に対する返答もまた見つけられなかった。
「なかなか来てくれないんだもん」
「遠いから」
そうかと言った小磯は地理に疎いらしかった。今どの辺に行ってるのと訊いておきながらこの場所からの距離と言えば感覚を掴めないらしい。地域の小学校ではなく受験して通うことになった中学校は電車で通わなければならない距離だった。家から徒歩で来ていたこの学校は駅の反対側になる。そう説明するとやっと合点がいったらしく、越してくるまでよく知らない土地だったしと苦笑でもって言い訳をしている。
「夏休みは来てね」
アイス用意して待ってるとその言葉に頷いたかどうか覚えていない。けれど夏が近づき始めた、青い葉の匂いを嗅いでいたことは間違えようもないし脱ぎ捨てた靴の裏が踏みつけたせいで取れない匂いをいつまでも意識することになった。約束を違えたような気になって紛らわすようにかちかちと無意味にシャープペンシルを押し出す佳主馬はすっかり夏休みを過ごした後だった。
宿題を七月に終わらせるという計画まではその通りだったが、後半はずっと尊敬していた、家族中が慕っていた祖母が亡くなったというそのことだけで頭も身体までいっぱいだった。化学式や数式の方が薬品の匂いよりもずっと好きだと本当は数学の研究者になろうと思っていたそうして疑わなかったとふと思い出した話は算数という教科のみを学んでいた佳主馬には理解し得ない気持ちなのだと聞き流したがこうやって学ぶようになっても未だよくわからないとノートに落とされた実験の流れや計算式は佳主馬にとってはそれ自体が楽しいものではなく、ただ教科書に載っているから説明されているからというだけで覚えてしまわなければと思うものだった。きっとこういうものを説明するのが好きなのだろう。けれど説明することが、解を導くことが心地よいというだけで教師というにはあまり有用ではないと保健室での補修は早々に諦めた経験がある。だから先生は先生になれないと言った佳主馬の言葉に複雑だけれど図星だと返したその思い出の中の彼と夏前に会ったまともに顔を見ることができなかった、年上の、今は自分にとっての先生ですらない人が同じだと考えようとすると頭に熱が上って機能停止すら起こしそうになる。自分にとっての彼は何だったか、とか心当たりにの脳が提示するものを認めることができずについにペンシルの芯がぽとりと終りを迎える。みんみんと鳴く蝉の鳴き声が変われば、日差しはそのまま吹く風が乾いて蒸せるような緑の匂いがなくなったら冷凍庫でそのままになっているであろうアイスを処分しに行ってやってもいい。それくらいのことならとふと見た窓の外で散った葉は緑ではない色を含んでいた。小学校の夏休み、保健室に来てくれるならと賄賂のように渡されたソーダのアイスは結局二人では食べきれずに秋口まで残っていた。寒い冷たいと言いながら笑って覚えたあの温度が舌先をひやりと刺激したような錯覚をする。同じように笑うことができたなら彼との距離も思い出すことができるだろうか。先生と呼ぶことも、とっくに知っている彼の名字も名前も口にすることができないまま今度会ったときこそは何と呼ぼうか決めようと熱が上る頭では思考が簡単に解けてなくなっていく。丁度水溶する物質の計算だった。
溶けたと見えるものでも実際の質量はそこにあって、あぶり出せばあるいは試験薬を使えばそれを見ることができるという。熱を逃がしてそうして自分の中に確かに存在するものは何か確認するのを先送りにした。ただ呼吸器と頭だけが夏においていかれたようにひどく熱いと思った。
きせつだより
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