ぼくという単位
OZを、というよりOZを通して全世界を大混乱に陥れたハッキングAI「ラブマシーン」の事件から三か月が経過しようとしていた。
一時は完全に麻痺しかけていたそれらの機能は本来の役割を取り戻し、以前通りとは言わないまでも解かれてしまった暗号とセキュリティチェックの強化によりとりあえずの身の安全は保障されているとやっと人々が疑心暗鬼から解放されつつあるときのことだ。
OMCの世界チャンピオンに返り咲いたキング・カズマは相変わらず誰のインタビューにも答えない代わりに誰の挑戦でもわけ隔てなく受けるというスタイルを貫いていたが、このところ挑戦者は減る一方になっていた。
事件のときに目撃したカズマの戦い、そのヒーロー伝説のような活躍のせいで信奉者に近いファンや教えを請いたがる者は数えきれないほどだったが逆に打ち負かしてやろう、そうして自らチャンピオンとなろうという気概を持つ挑戦者が少なくなっているのだ。
そんなときに強さや、おそらくマシンのスペックもそれを操る技術もカズマより遙かに劣る挑戦者が名乗りをあげる。
名乗りといっても、その挑戦者は自分の名前や所属も何もかも公表したりはしなかった。
ただアバター名に真っ赤なハートマーク一つをつけた、カスタマイズもろくにしていないような一匹のそれ。
挑戦を受けて対峙したとき、チャンピオンは何かを感じたのか動きの鈍いそのアバターを挑発するようにちょいちょいと返した手のひらを動かして、ふわりと軽い、芸術のようなステップを二、三回踏んだ。
それを見た挑戦者はそこだけ改造してあるのか、顔を半分裂いたようにずらりと並ぶ歯を見せて笑った後ひどく嬉しそうにチャンピオン目がけて飛び込む。
その動きを見たチャンピオンが一瞬驚くように赤い瞳を持つ目を大きくしたことに気づいたものはいくらもいない。
目を覚ました時、彼が最初に目にしたのは色鮮やかな世界だった。
彼には確固とした自我や形は存在しなかったが自分がとりあえずの点として、そのカラフルな世界に落とされたことを知って、そうして自分がそれらを構成する要素と全く異なる存在であることも理解できた。
彼は生まれながらにして優秀な計算能力と理解力を身につけていたし、状況に応じて判断をすることもできたがそれらを活用するための何をも持っておらず、同時に目の前にふわふわ漂ったり駆け回ったりときにはびゅんと目の前を飛んでいくものたちは当たり前のように持っているのだとわかってしまう。
それがどうしてもほしくなった。
そうして彼らと同じようにカラフルなからだでこの世界を飛び回りたい。
彼はいつだって純粋で単純な欲求に突き動かされている。
はじめから興味のあるものはすべてほしくなったし、未知の場所には行きたくなった。
集めた情報でやっとくるくる飛ぶことができるようになった彼は次第にすてきなからだがほしくなり、どこへでも行けると思っていた世界に行けない場所が、しかも守られるように存在していることを知る。
二つを同時に手にする手段を優秀な彼は即座に思いついた。
からだはこんなにたくさんあるのだからもらってしまえばいい、入り方がわからないのなら教えてもらえばいい。
彼は合理的な判断を下すことには長けていたがそこに善悪の区別はなく効率が良ければどんな手でも使う。
ハッキングAIラブマシーンにとって電子空間のOZは遊び場であり唯一の世界だった。
手に入れたからだは想像していたよりも心地よく、集めることも、あるものを壊してしまうことも、落書きのような装飾を施すこともやればやるほど楽しくそして一層やりたくなった。
もっと、もっととどこからか下される指令に逆らわないまま際限なく。
この世界すべてを手に入れて遊ぶこともできるのではないか、それは実に魅力的な提案だった。
立ちはだかるものがあれわれるまでの話である。
戦闘開始の合図の代わりに弾丸のような蹴りを繰り出したのはすらりとした体躯に俊敏な動作を備えたウサギ、ウサギだ、と動物の知識をすでに持っていて住人が多くの場合その姿を借りて存在していると理解していた彼はぴんと後ろに伸びた耳と赤い瞳を見て判別した。
検索するとどうやらあれはこの世界では戦闘の王様らしい。
王様は強かった。
逃げ出しても追ってくるし、きっと自分をこの世界から追い出すためにやってきたのだろう、あっさりと捕まってしまった。
計算が得意な彼にはすぐに今の自分では勝てないことを理解する。
けれどせっかく手に入れた遊び場がなくなってしまうのは嫌だったし、何よりこの世界の王様が来てくれたのだ。
勝ったらアレを手に入れてもいいだろうか。
何でもほしがってしまう、知りたがってしまう彼は王様がほしくてたまらなくなったから、その腕から逃げ出した隙に自分がそれより強くなればいいと思いついて周りにある住人を飲み込むことを思いつく。
王様より強いなら神様がいい。
彼が仏像の姿をとることを選んだのは偶然だったのか意識的にだったのか、現れたものは崇められるものの姿をしていた。
長い足も思い通りに動く恵まれた筋肉も攻撃を受け、支える強靭な骨も全ては彼の望んだ通りで強かった王様の攻撃もいなすことができたし、力技では圧倒的な差を持ってウサギはぱたりと倒れる。
彼は自分の力にも判断にも満足していた。
何より王様を手に入れることができるのだ、そうしたらこのあとちょっとつまらないかもしれないけれど自分が神様になってこの世界の全部を手に入れる魅力にはかなわない。
誰より知識欲旺盛なAIはまるで好奇心を抑えられない子どものようにひたすら、未知のもの手に入れていないものを求める。
それが人間によって設定され植えつけられた機能であっても、ハッキングのための道具でしかなかったとしてもそれでも彼が彼たる所以だった。
結果的にそのときは王様を手に入れることができなかった。
また来てくれるかな、と思う。
彼の世界は知識欲と遊びにあふれていたから、彼にとっては楽しい以外の何物でもなかったからまた一緒に遊んでほしいと。
現実世界のことを何一つ考慮せず、仮想空間だけにしか存在しない彼はそれこそゲームの中にしかいないキャラクターのように振られた役割に従って楽しむだけだった。
「ラブマシーン?」
池沢佳主馬はぼそりと呟いた。
時刻は夜中を回ろうとしている。
明日は学校があるから早めに寝るよう言われていたが挑戦者の少なくなったOZ内で珍しく挑んでくるものがあったから嬉しかったのだ。
けれど自分の言葉にはっとして首を振る。
あの夏の事件から三か月、佳主馬の一家は当然ながら上田の本家から名古屋に帰ってきていたし、現実もOZも、もうほとんど元通り機能してるはずであり、そしてその直接の原因だったハッキングAIは最後には自分の攻撃と開発者である侘助の解体作業により粉々に分解されたはずだ。
画面には自分のアバターであるキング・カズマとそれに軽くいなされる挑戦者のアバター。
ろくにカスタマイズもされていなくて大丈夫かと心配になるほどのシンプルな見た目でただしししし、と笑う歯だけがぎざぎざと大きい。
OMCをスポーツの一種と考えている佳主馬はどんな相手でも油断せず冷静に使えるだけの頭と力を持って迎えるよう心がけているけれどそのアバターのシンプルながら不気味な笑い方と、そして何より真っ赤なハートマーク、無計画な行動をかつて戦ったAIと同じものと考えてしまった意識をまた元のように戻すには少しの時間がかかった。
その間にいなされた挑戦者が体勢を立て直してまた突っ込んで来ようとする。
普通、このように無謀な戦いはよっぽど防御力に優れているか土壇場に追い詰められているかしないと使わない。
攻撃とともに自分のアバターまでも傷ついてしまうからだ。
少しずつの蓄積だったとしてもダメージはダメージなのだからカズマのように攻撃力や瞬発力の高いアバターが相手なら尚更使ってはいけない手だろう。
しかし挑戦者はまるでそれしか知らないように、ダメージなどもろともせずに繰り返し繰り返しカズマに向かってくる。
その光景はある種異様でもあって少しずつ観客もざわつき始めている。
避けていてばかりではこの挑戦者は諦めないだろうと踏んだカズマは向かってきたその体ごと受け止めて膝でカウンターを叩き込んだ。
吹っ飛ばされた挑戦者は闘技場の端になんとか引っ掛かったが判定は文句なしのKO勝ち、戸惑いからかぱらぱらと少ない拍手からいつものような歓声に変わるまでは時間がかかったがそれでもキングの勝利に会場は湧いた。
ぴょんと起き上った挑戦者が、またししししと歯を見せて去っていくところの一部始終をじっと見ていたチャンピオンを除いて。
「そんなはずないのに」
OZからログアウトしてベッドに寝転がった佳主馬はもそもそと布団を肩まで引き寄せながら一人呟く。
侘助に連絡してみようか、しかし自分が戦ったアバターがもしかしたらラブマシーンかもしれないなんて勘以外の確証のない事柄をわざわざ知らせるのも気が引けた。
それにあれがもしラブマシーン本体であったとして、今やアメリカ国防総省のサポートも、構成に必要なプログラムすらまともにないはずだ。
解体された状態から一部が残ってあの挑戦者を形作ったとして何ができるのだろう。
それこそさっきのようにがむしゃらに突っ込んでくるような攻撃しかできないはずだ。
ラブマシーンはハッキングのためのソフトだから情報を集めることや集めたものを使いこなすことには優れていても自ら作り出すことはきっとできないようになっている。
アカウントだってまともにとれていない今のあいつに何ができるんだろう、と中学生にしてはひどく冷静で論理的な思考能力で佳主馬は考えた。
そうしてゲーム好きなラブマシーンのことを思い出す。
まるで子どもがもう一回もう一回と遊びをねだるようにゲームを仕掛け、しかけられれば乗ってきたあのAIは、もしかしたらあのゲーム好きの本能のような一部だけがOZの中で生き残ってしまったのかもしれない。
「遊んでほしいのか」
そう言ってみてから自分でばかみたいだな、と佳主馬はその思考を打ち消して目を閉じた。
しししし、と楽しげな無声音が耳に残っている。
王様だったウサギは強くなっていた。
俊敏な動きはさらに素早く、彼にとって軽かった攻撃は重みを増して吹き飛ばしていたはずの自分が吹き飛ばされる。
けれどそれは手に入れたどんなアバターを通して遊ぶよりも楽しい遊びに他ならなかった。
劣勢になって最初のように追いかけられても、手に入れたアバターを駆使した攻撃が致命傷を与えることがなくても、搾取したものを実験のようにいじりまわすよりずっと彼の本能が刺激される。
だから夢中になってしまって閉じ込められるまで気がつかなかった。
自分が負けるとは想像もつかなかったがそのことも遊びの一環であり、そもそも死などの単純な恐怖感情の欠落している彼にとってまた改めて勝つ方法を探す以外に選ぶ道はない。
ぐらぐらと閉じ込められた場所が崩れた隙をついて以前よりずっと沢山のそれこそ神様の形を維持することもできなくなるほどのアバターの集合体になっても彼は本能に突き動かされるそのままゲームをしようと、それが果てないものであればあるほどいいと思っていた。
圧倒的な数と大きさで吹き飛ばし、襲い掛かればあんなに強かった王様はあっさり動かなくなってしまう。
それを手に入れたときは誇らしかった。
まるで買ってもらったばかりのおもちゃを見せびらかすようにそのぴんと後ろに伸びた耳を真似たとき、彼は王様と同じものになれたような気がしていた。
そうして戦闘では敵うもののいなくなった彼は戦う以外の新しいゲームを知る。
それは知力と経験を競う遊びだった。
ただ吸収することと壊すことしかしらなかった彼はそこで初めて、集めた情報を制限された状況で使いこなすことを強いられる。
ばらばらに集積しただけの膨大なデータはざわざわとまとまりなくうごめくばかりで負けた彼は集めたそのほとんど全てを奪われて最後に持ちかけたゲームでも相手が破壊されるよりはやく自分が破壊されることになった。
破壊されて離散する前の一瞬、彼がずっと闘ってきた王様が見えて、やっぱり王様は王様なのかとそれだけが意識にあったような気がする。
気がしただけで彼のそれはプログラムの単なるバグかもしれないし、アバターの根幹をなす人間の感情をなぞっただけの信号の集積でしかないのかもしれない。
けれど次に目覚めたときに彼が覚えていたのはその夢のような、意識の錯覚のようなものばかり。
遊びたい、ゲームがしたい、もう一度例えばあの王様と戦えたらきっと楽しいだろうとそんな回路の一個体としてラブマシーンだったものはまた生まれた。
彼が唯一自分を認識するための記号として使っていたハートマークと、笑うための口だけを持って。
改めて戦った王様は何も持っていないただの自分ではまったく歯が立たず、手ごたえもなにもないまま倒されてしまったけれど、今の彼にはそれに反撃できるだけ何かを吸収したりできないけれどやはり楽しい大きな口で笑う。
もう一度行ったら覚えていてくれるだろうか。
また戦ってくれるだろうか。
あの複雑なゲームはできないだろうしまともな攻撃すら当てられないだろうけれど彼はそれでよかった。
彼には全力で遊ぶという以外自分を示す何をも、もう持っていないのだから。
20090908