真夜中に、胃に穴が開くほどのコーヒーで起きていよう
待ってと引き止めると、シンジは少し困ったような顔をした。
「僕、何にも持ってきてないんだけど。
明日学校だし、帰るつもりだったんだ」
言い訳じみて反らされる視線が申し訳ないと告げている。
シンジは好意で、こんな夜中にカヲルを訪ねて来たというのに、彼が申し訳なさそうにするのも可笑しな話だ。
カヲルは少し笑うと、構わないからとシンジを家の中に招き入れた。
いや、引っ張り上げたといったほうが正しいのかもしれない。
妙に礼儀に厳しいところがあるシンジは、例え家主が良しとしてもしばらくは上がれという言葉をを聞き入れることはなく、埒が明かないとカヲルが無理やり連れ込んだのだ。
それにもかかわらずシンジはやはり居心地悪そうに、居間の座布団の上で小さく正座している。
もう何度も来ているはずのこの家でも、慣れることはないらしい。
「ごめんね。学校があるのに引き止めちゃったりして」
甘めに作ったアイスのカフェ・オレをシンジの前に置くと、彼は丁寧にお礼を言った後、こちらこそと謝った。
「こんな、夜中に来ちゃって。しかも、手ぶらだし」
目を反らした後、伺うようにこちらを見る。
ほとんどの人間がいらつきを覚えるその仕草を、カヲルは笑って受け止めた。
彼は普段からそれさえ好ましいと思っているのだが、今日はシンジが自分のためにわざわざ夜中に訪ねて来た日である。
何をされても怒る気にはならなかった。
「それより、お礼を言わせてよ」
「え」
「シンジ君に誕生日を一番に祝ってもらえてうれしいよ。来てくれてありがとう」
「そんな」
薄い肩がおびえるように揺れて、首からじわじわと顔までが赤く染まる。
慣れないことに遭遇したときにシンジが良く見せる反応だ。
「べつに、大したことしてないから」
呟く声はどんどん小さくなる。
正座した足の上で左の拳がぎゅっと握られ、右手はしきりに項を掻いている。
「僕の誕生日を祝うことは大したことない?そんな大したことないもののためにシンジ君は来てくれたのかい」
「ちがう」
誘導するようなことを言うと、簡単に引っかかったシンジは反射のように否定する。
もごもごと続いて呟く姿は必死で言い訳を探す子どものようだった。
「ごめんね。困らせたかい。
嬉しくて舞い上がってるからってことで、許して欲しいな」
シンジの握り締めた左手を解くように引き寄せて、カヲルは自分の右手と絡める。
「まいあがってる?」
ぽかんと今度はシンジが、先ほどのカヲルと同じように目を瞠って驚いている。
自分の行動と、カヲルが舞い上がっているということがどうも結びついていないらしい。
相変わらずもどかしくなるくらいの自信のなさだ。
「そうだよ。だってシンジ君は僕を喜ばせに来てくれたんだろう。大成功じゃないか」
絡めた指先はほとんどカヲルの力で繋がれている。
シンジのそれは力を入れようかどうか迷っているようだった。
体温は、高い。
わずかに汗で湿った人の皮膚だと分かっていても、カヲルはそれを不快だと思わない。
どうしてだろうか、あんなに頑なな心の壁を持っている自分なのに。
他人に触れることすら厭うていたというのに。
目の前のシンジも、それは同じだろう。
カヲルと違って彼の場合は厭うているのではなく怖がっているのだろうけれど。
だからその恐怖心を自分が取り除くのだ。
(こんな積極的な感情は、初めてだよ)
カヲルは手のひらにさらに力を込めた。
ほんの少し、シンジの指先にも力がこもる。
これだけのことで嬉しい。
渚カヲルは知らぬ間に随分単純な生物になってしまったようだ。
「あの」
「ん」
「カヲル君、喜んでくれたの?」
「うん。嬉しいよ」
シンジの表情がやっと喜色ばむ。
錆付いていた舌にもようやくオイルが差されたようだ。
「プレゼントもあるんだ。明日、じゃなくて今日、ケーキも作ろうと思って。ご飯も、カヲル君ひとりだから」
「え」
カヲルは自分が思うよりも相当驚いた顔をしたらしい。
シンジの目が、それを見てまた下を向く。
「あ、ごめん。僕が来るのは、迷惑だよね」
「違う」
今度はカヲルが反射のように否定する。
「うれしい。ありがとう。シンジ君」
「あ、う、わ、か、かをるく」
左手の反応も何もかもすっ飛ばして、カヲルはシンジを抱きしめた。
「学校、さぼりたいな」
「だめだよ。行かないと」
混乱しているのかシンジは本来するはずのことを忘れて返答する。
つまりはされるがままだ。
空になった両手は散々どこに行くか迷った挙句、後ろの床に落ち着くことになった。
カヲルは聞いているのかいないのか、シンジの身体をさらに強く引き寄せる。
「いきたくないな、シンジ君と一緒にいたい」
耳元でささやかれた声にこの意志を貫けるのかどうかシンジは自分自身に問いかけた。
返答は、沈黙。
とりあえず、机に置かれたカフェ・オレの氷はすっかり解けて中身は二層に分かれていた。
「あの、カヲル君」
「なに、シンジ君」
「このままだと、僕倒れちゃいそうなんだけど」
「分かってるよ」
「だから」
「だから?」
「はな」
「今日は僕の誕生日を祝いに来てくれたんだよね、シンジ君」
「うん」
「じゃあ、大丈夫だよ。僕はそれでも怒らない」
文と文が繋がっていない。
シンジはぼんやりする頭でそんなことを思った。
どうやら床についた腕の痺れが頭にまで上ってきたようだ。
20070913
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