天使の歌―知らない旋律―
あんたが何を欲しがっていたかなんて
私はずっと知っていたわ
人類が一つになってまた分かれた。
最初の二人は私とあいつだったけれど、私たちはアダムとイヴにはなれなかった。
あいつは何もかもを知ったくせにあまちゃんで、私は何もかもを知ったくせに意地を張るのをやめられなかった。
私はあいつが求めていたものではなくて、私にとってもあいつはそれじゃあなかった。
たったそれだけのことだったけれどそれが何よりも大きくて、私たちはただ並んで生命の海が誰かを生むのを待った。
もとの世界よりずっと少なかったけれど、沢山の人が帰ってくる。
何かを失くしたような、少しだけ悲しそうな顔をして。
あの心地よい空間から抜け出すには意志が必要なの、とミサトは言う。
ばらばらになった自分を残らず集める、つよい意志。
きっとだれより自分を見て欲しがっていた私だから、この世界を創ったあいつと一緒に、真っ先に帰ってこられたのだろう。
それとも、守ってくれたのだろうか。
ねえ、ママ。
しばらくしてぽつぽつと帰ってくる人々に目もくれずに、シンジは海を見つめている。
ファーストを待っているの、と訊けば首を振り、あんたの母親と訊けば母さんは帰ってこないと言った。
「じゃあ、誰よ」
そう訊けばなぜか見つめた右手をぎゅ、と握ってカヲルくんとつぶやいた。
「かおるくんって」
知らない。
私はその名前を知らなかった。
生命の海にいたときつながった記憶はあまりにも膨大で、私のちいさな脳に収まりきれるものでもなかったし、シンジの記憶を見たという認識もない。
だからシンジの言うかおるくんが誰なのか私に心当たりなんかなかったし、前の世界のときだって、シンジはその名前を口に出していないはずだった。
記憶力には自信がある。
ということは。
「そうよ。渚カヲルはあなたが精神汚染の影響下にあったときに現れたモノよ」
ほとんど何も言わないに等しいシンジの言葉から考えた推測に、ミサトは少し妙な物言いで答える。
「なによ、モノって。ヒトじゃないの」
苗字も名前もあるのだからヒトのはずだ。
けれどもミサトは首を振った。
「渚カヲルは使徒よ。第十七使徒タブリス。シンジ君が殲滅したの」
使徒。
私たちが戦っていたモノ。
敵だったモノ。
実際、彼らはただアダムとの融合を求めていただけだった。
もとの自分に戻りたいと思っていただけだった。
それでも変わりない。
あいつが私のこころに侵入って来たときの感覚は、私の中でしこりのように、まだ消えない。
「じゃあ、あいつは使徒を待ってるって言うの」
随分大きな声を出してしまった私に、ミサトは少し悲しそうに笑った。
「渚カヲルは最初、あなたの代わりだったのよ。アスカ」
ミサトが説明した言葉を、私は頭の中で反芻する。
理解するために要した時間は僅かだったけれど、受け入れるには随分胸の悪くなる話だった。
渚カヲルはフィフスチルドレンとしてネルフに送り込まれて碇シンジと仲良くなった。
けれど彼の正体は使徒で、シンジは殲滅を命じられて友人をその手で殺す。
しかもそれは人類補完計画を自分たちの手で行うためにゼーレが仕組んだもので、渚自身は知らされていないことだったろう、これはミサトの推測だけれど。
渚の目的はおそらくシンジとの、ヒトとの接触。
そしてアダムとの融合、だった。
「渚カヲルが望んでいたのはアダムとの融合だったけれど、実際あそこにあったのはリリスだった。
ゼーレの意図を知った彼はシンジ君の手で死ぬことを選んだのよ。
自分が死ぬことでシンジ君が、人類が生き残ることを選んだのかそれとも、サード・インパクトまでを見越して付き合いきれないと生を諦めたのかは分からないけどね」
私たちに知る術はないわ。
ミサトの目は遠くを見ている。
その話が本当なのだとしたら、それは使徒だろうか。
まるで人間らしい。
いや、誰にも入り込めなかったシンジの心を今も奪ったままでいられるのは、使徒だからなのかもしれない。
「すきだ、と言ったそうよ」
「え」
ミサトと私の長い髪を、潮に似た匂いをはらむぬるい風が持ち上げる。
音が聞こえないほどの遅い風速は、自然の法則に従っているはずなのに気持ちが悪かった。
「シンジ君に誰も言ってやらなかった言葉を、彼だけがあげたのね」
砂浜にうずくまるシンジの目は、まっすぐに海とも呼べなくなった海を見ている。
待っているのじゃなくて、呼んでいるのか。
さっきのような掠れた声ではなく、明確な、力強い声で。
「私にはさいごまで言えなかった。
奮い立たせて送り出すことしかできなかった。
だからなのかもね」
戻ってきた時以来、一度だって私を見ないの。
ミサトは悲しいのではなくて、寂しいのかもしれない。
親代わりだった自分に、シンジは頼らない、甘えない。
帰ってきたとき喜びはしても、それ以上はない。
「でも、使徒は」
「そうよ。きっともう生まれない。
そのためにゼーレは、人類補完計画の前に、使徒を殲滅させたのよ」
補完されたのはあくまで人間で、生まれたのは一つの生命体だから。
使徒はその中に含まれていない。
爪弾きにされた人外の存在は、意志ではなく細胞を構成していた分子だけが生命のスープを漂う。
「シンジはそのこと、知ってるんでしょ」
問い詰めるような私の剣幕に、ミサトは困ったような顔をした。
途方に暮れた子供のような目。
保護者が何て顔してんのよ。
私は砂を蹴ってシンジのところへ走る。
後ろで止める声には、聞こえないふりをする。
「シンジ」
肩を掴んで振り向かせたシンジの身体は、女の私にも振り回されるくらい軽かった。
あ す か
乾いた唇が私の名前を形作る。
「あんた。いつまでそうしてんのよ。あんたが望んでこうなった世界なんだからあんたが笑わないでどうすんのよ」
覗き込んだ目は私を見ていたけれど、いつもみたいにおびえたものでも、拒絶するようなものでもなかった。
ミサトと同じように、私も要らなくなったのかもしれない。
シンジは手に入れたのだ。
大事だと自信を持って言えるものと、自分をすきだと言ってくれる存在を。
いままで怯えて手に入れられなかった愛情と、決して与えられなかった愛情を、その世界に持っているのだ。
だから私にも、ミサトにも怯えない。
嫌われても心配がないものね。
たった一つがあれば生きていけることを、あんたは知ってしまったのよね。
私にとってのママの愛情と同じように。
だけどあんたは望んだんじゃなかったの。
私に、ミサトに、他のみんなに会える世界を。
あんたが、望んだんじゃなかったの。
「どうして、かな」
呟かれる言葉は力なく、辛うじて聞き取れるくらいのかすかなものだった。
それでも、私にはちゃんと聞こえる。
「アスカにも、綾波にも、ミサトさんにも、トウジにもケンスケにも先生にも加持さんにも、会えないって分かってるけど父さんと母さんにも、会いたいって思ったのは本当なんだ。
あのとき僕らはひとつだったけど、それよりもひとりひとりに会いたいって。
僕の欲みたいなもので、それで壊したんだ。
殺したって言った方がいいのかな。一応あれって一人の人間だったんだし」
「わかんないわよ。どうでもいいのよそんなこと」
私の言葉は励ますようだった。
なだめるようだった。
シンジを散々拒絶しておいて、今更私はこいつの味方を演じようとしている。
どうしてか助けたかった。
欲しがっていたものを手に入れた瞬間になくしたこの男を。
同情なのか、優越感ゆえの哀れみなのか、それとも友情なんて青臭いものなのか、愛情なんて不確かなものなのかは区別がつかなかった。
「そうかな。本当はみんなあそこにいたほうが、好きな人とずっと一緒にいられたはずなんだ。
いつでも会えたはずなんだ。繋がっていられたはずなんだ。
だけど、僕のすきなひとはあそこにいなかった。
さいごまで僕が望んだとおりにやさしくしてくれたのに、それが本心かどうかも訊けなかった。
ありがとうって、ごめんねって言いたかったのに」
ぶつぶつと呟かれる言葉は碇シンジのものではないみたい。
さいごまで何もかもから逃げ回っていたあいつと、どうしてこの目の前の男は違うのだろうか。
ちがう。
だから戻ってこられたのかもしれない。
今のシンジには、意志がある。
会いたいという、強い意志。
他人のためではなく、自分のための願い。
「なのに、どうしてかな」
肩を掴む私の手を外してシンジが立ち上がる。
長い間同じ姿勢を取っていたからか、その背は猫背気味になって両足はふらふらしていた。
それでも一歩一歩踏み出して、その身体は赤い海へと近づく。
「シンジ」
靴先が、ズボンの裾が、膝の裏が波を受けて濡れる。
命を含む水が、固体を浸食する。
「ここにも、いないんだ。
カヲル君だけ、どこにもいない」
「シンジ」
呼ぶ声に振り向いた。
シンジは一つではなくて一人だから、私の声が聞こえる。
ひとりにならなきゃ、できないことがある。
こんなことになるまで、わからないなんて。
「どうしてかな。アスカ。
カヲル君は、どこにいっちゃったのかな。
会えた気がするんだけどな。どこにいたのか、忘れちゃったんだ」
赤い水を、シンジの手が掬う。
誰かの残滓をさがすように。
それは誰かの命の一部で、同時になにかの死骸だった。
痩せた身体が沈む。
さっきの風のようだ。
水面には波紋が見えたけれど、何の音も聞こえなかった。
「シンジ」
もう一度、呼ぶ。
いや、叫ぶといった方が正しい。
私の声は、あちこちに立てられたビルの墓標に跳ね返って響いたけれど、海に拡散して綺麗に消えた。
直後に上がった水飛沫はちゃんとシンジを連れてきた。
ただの水でない証拠に、それは綺麗にシンジの髪からシャツからはがれていく。
「 」
待ち人を呼ぶシンジの声は、途切れる間もなく日が沈むまで、ビルの墓場にこだました。
星が見える頃に連れ帰ったシンジの身体はあたたかくて、否応なしにあの液体を思い出させた。
20070911