天使の歌




ひぐらしの声がする。
水は赤いし、建物だって何かの装飾だって今は亡骸だ。
ほら、同じだよ。


であったときと。





あかい液体はただ沈みつつある太陽の光を反射しているようにも、意思を持って蠢いているようにも見えた。
そう見えるのは自分がそれは命を湛える液体だと知っているからだろうかと少年は思った。
水面に反して打ち寄せる波は穏やかで、規則的に、ほとんど同じ場所を掬っては返している。
打ち寄せるというからには海なのだろうか。
それを示すように、少年が座る場所は粒の細かい砂浜で、同じような景色が少なくとも見える範囲では続いているようだ。
けれども少年以外の人影は見えない。
この海が意味するものを直視することは人々にはまだ難しい時期なのかもしれない。
たとえたゆたっているものが自分の望みそのものであっても、刻まれた思い出は簡単に忘れることを許さないのだ。

人影が無いことと、海に突き刺さったビルのような建物、削れた石や鉄柱がこの場をさらに異様に写していた。
しかしその光景を少年はただ、同じだ、と思い見つめている。
自分が過去、逃げ出すために見た景色。
それとの重なりが、少年をこの場に向かわせる力の一つなのだろう。
似ていると、同じだと思い込むことで彼の心は僅かではあるが救われていた。
人類が一つになって、それからまた分かれ始めてから三ヶ月が過ぎようとしている。
既視感という支えが無ければこの場所にいることが難しくなったそのときから、少年はそれだけを寄る辺にしている節があった。

似ているから、同じだから今にも同じようにあの歌声が振ってくるのではないか。
ただ違うのは、自分の望みだけ。
あの時求めていたのはただの逃げ場で、見たくないものを直視しないようにするためだった。
けれど今は違う。
欲しいもののために毎日ここにいる。
一人になってから、ずっとずっと呼んでいる名前。

「……くん」

飲まず食わずで枯れた咽喉はまともに言葉をつむぎだすことはせず、少年の耳にさえ届いたのか怪しかった。
それでも彼の唇は、うわごとのように同じ名前を繰り返している。

けほけほと砂浜に拡散した空咳は、随分と弱々しく病人じみていたが、そのことにはまったく気を払わず、少年が見たのは咳をしたときに口へ運んだ己の右掌だった。
ゆるく握ったり開いたりしながら、少年は見つめたそれに向かって、何事か呟いた。
どうやら覚えている、と言ったらしい。
覚えてる、覚えてるよと自身の掌に呼びかけるさまはある種狂気のような異常さを感じさせたが、それを指摘する者は、今ここにはいなかった。

そうして少年は呼びかけた掌に唇を寄せた。
いとおしむような優しいそれも、おそらくこの場所に過去を重ねているのと同じ感情の結果だろう。
何度も、何度も。

それから口付けていたものをもう一度見つめなおした少年は、やがて乾いた舌でそれを舐め始めた。
砂浜に置かれていた彼の手には少なくはない砂粒が付着していたが、構わず絡め取る舌先がざりざりと小さな音を立てる。
遅く出始めた彼の唾液がやっと掌を濡らすようになって小さな摩擦音が消えても、手首にやや粘着質で透明な液体が伝っても、彼はそれをやめない。
その舌先は継続的ではあっても、どこか躊躇いがちで、口付け同様いたわるように優しかった。

「……みの……おい……るね」

途切れ途切れの言葉はやはり彼の耳にも満足に届かない。
けれども少年は少しだけ満足したように、それでもやはり寂しそうに今日ここに来て初めて微笑んだ。
そして継続的だった舌の動きをやっと止める。

ふ、とついた溜息の後、何を思ったのか少年は今度は己の指先を噛んだ。
皮膚が切れて数秒後に、先ほど唾液の伝った跡を追うように、しかしそれよりも数段滑り良く血液が流れた。
砂浜に落ちた赤というにはどす黒いそれを見た少年は、痛みを訴えるというより少し怒ったように眉根を寄せる。
その唇がどうやら消えない、と呟いた。
消えない、消えない。
君の匂いも、抱きしめた感触も。
握りつぶした感覚もそのまま。

「……えろよ。消えろよ」
残滓ばかり強く残って鮮やかなまま一つだって消えない。
彼の名残ばかり追いかけて、僕は一歩だって前に進めない。
それは少年が二度目の生をこの世に受けてからずっと繰り返し考えたことだった。

「変わんないな。こんなんじゃ」
この期に及んで立ち直れない理由を他人になすり付けようとする自分のことを少年は嫌悪している。
けれども最初に生まれてから少年が自身を守る方法で知っていたのはそれだけだった。
きっとこの残滓が消えても、自分が途方に暮れるだけだということは目に見えていて、それでもいとおしい彼の名残を憎むことでしか立っていられない。

でもね、と彼の唇が続けて動く。
“もう一度、会いたいと思った”
母への言葉に偽りはなかった。
会いたいとおもう自分の欲が、一つになった人間を再び分けた。

そうだ。あれは欲望だった。
少年は再び思い至る。
満たされていたはずだ。
あたたかく、完全に繋がりあっていたはずだった。
それでも会いたいと願ったのは、欲望以外の何だと言えるだろう。

埋めあわせるのではなく、与えて与えられて、奪って奪われる方を選んだのは自分だった。
すべてが均一に満ち足りなくとも、手に入れてしまいこめる自分だけの唯一のもので、それだけで満たされたかった。
それは一緒に帰ってきた彼女でも、この海を作った彼女でもなくて。
欲しい言葉は残らずくれたくせにそれ以上を彼から奪った異種族の少年だった。

同じだよ。
少年の唇は海に向かってそう呼びかける。
ひぐらしの声がする。
水は赤いし、建物だって何かの装飾だって今は亡骸だ。
ほら、同じだよ。
であったときと。

「出てきてよ、出てきてよ」
今までで一番意思を持ち、力強かった声も同じく響きもせず砂浜で散った。

少し調子の外れた、あまりにも似合う鼻歌。
妙に芝居がかった口調と、用意されたみたいな台詞。
それから絶妙の笑顔といやでも頭に響く声。

彼を表す言葉は特殊で、夢にでも見ることは難しい。
それでも残り続ける残滓で、いつまでも忘れることはできない。
少年はその残滓と欲望にしがみついて、月が昇っても尚彼を待ち続けた。
亡骸に降り立つ白さを、遠い海岸にさえ探した。

「カヲルくん」

呼び声は響いたのかどうか分からないまま、ひときわ強く寄せた波の音にかき消された。



20070731