底なし夜を馬鹿が見る
「おまえ、も、酔ってんじゃねえか」
詰った言葉は舌が上手く回らずに伝わったかどうか知れないが健二はそれだけはいつものようにへらりと力の入っていない笑顔で指定席になっているパイプ椅子を軽く鳴らした。
その頬は僅かに赤い。
自分のそれはどうだろうかと佐久間は反射的に窓の方を見た。
薄汚れたカーテンの隙間から黒々とした夜を見ることができたが映った自分の顔色まではわからない、身体が熱さを通り越して冷えている気がする。
大きなガラス窓を通じて感じた秋の夜長の冷気にぶるりと一瞬背中が震えた。
昼間は夏かと思うくらい熱かったのに。
薄暗さに慣れたせいか一台だけ起動しているパソコンのバックライトが向き直った瞬間の目を眩しく焼いた。
物理部室の明りはいつもの蛍光灯ではなく、どこかから勝手に持ち出して来た今にも切れそうなスタンドライトとすでに一時間はスクリーンセーバーの状態になったパソコンそれだけだから室内より校庭の夜に色が近い。
駅前のやたらぎらぎらとした繁華街の方がよっぽど明るいかもしれない。
下校の時刻が過ぎ、野球部のナイターも消えてからはずっとその光量で過ごしている。
夜中に残っていることすら校則違反であるのにその上飲酒しているのでは停学どころの話ではないだろうなとは今さらの後悔だろうか、いや後悔をしているからそう思うのかもしれない。
げほげほと咳き込むと口の端から唾液が伝う。
一緒に胃液まで出そうな不快感だった。
椅子の腰掛け部分に手をつき、眺めた床があまりに汚いのでそのまま吐いてしまいそうだと思う、そろそろ掃除しなきゃなあなんてたまに考えるだけで終わるのは日常なのだけれど。
それでもこんなに不愉快なら数時間だけの重労働の方がずっとましだ。
「佐久間ほどじゃないけど、弱かったんだ」
「ていうか、お前が飲めたことのが驚きだっつの」
ぐら、と頭が揺れる。
飲まされたのはサワーの類ではなく、ふざけて買ってきたウィスキーの方だ。
食道を通った原液がそのまま胃の中まで焼いているようだった。
あの酒屋のおやじボケすぎだ、買った時にはありがたかったこともこうなると恨み言しか出てこない。
唇を拭ったことで飲まされたそのときのことを思い出してしまった。
記憶が確かなら唇が触れたような気がする。
気がするのではない、舌までしっかり入れられた。
そして記憶も何も自分たちはそんなことをするような間柄ではない。
ではないから健二がウィスキーの瓶をあおったときにはただ呆けていて、逃げ遅れたと思ったのはすっかり飲みこんでしまった後だった。
少量、憎たらしいことに少量だけ制服のシャツに落ちてしまったアルコールが脇腹の辺りに点々と跡をつけている。
これも汚い床を見ているついでに気がついた。
そんな視界にさよならをしたくともきっと立ち上がることは難しいだろう。
がり、と引っ掻くように背もたれを握ったけれどそれだけだった。
これ以上体重をかけてしまえばキャスターの付いた椅子は滑らかに転がって行ってしまうと愛用している自分が一番よく知っていた。
「タチ悪いだろ」
「なにが」
健二がいくつか机に放置された缶のひとつを確かめるようにゆるく振ってあおる。
もうほとんど入っていなかったらしく上に向かって離した缶の口の辺りから舌が僅かに覗く。
明かりのせいで赤いよりも黒く見えてしまってそれにもまた頭が痛くなった。
「お前のことだよ」と口の中だけで呟く。
水もお茶ももしものときのために買ってきてはいた、ペットボトルは健二の座るパイプ椅子の背後にある。
なんでもない距離がひどく遠くに見えた。
最初に部室で飲み明かそう、と言いだしたのはどちらだったか、ともかくきっかけは夏休みの宿題の後回しのようにたまったバイトを片付けるために佐久間だけでなく健二も泊まることになった日だったように思う。
どうせなら校庭で花火がやりたい、だの肝試しがしたい、だのそうぐだぐだと話しながら作業をしていた。
どれもオタク部などという書き直し、否落書きをドアに施されてしまうほどどちらかといえば揶揄され大方の女子からは倦厭されている二人しか部員のいない物理部には実現不可能な話だったからまるで夏休みの宿題と一緒にできなかったことを思い返しているような気分になって佐久間の方は溜息を吐くばかりだったのだけれど。
バイトとはいえ陣内家に招待された健二は夏の思い出というのはそれしかない、と言っても途轍もない、忘れることのできない思い出だろう。
あるだけ羨ましい恨めしいと思って「俺につきあえ」と自分で言ったのか「佐久間の慰労会しようか」と健二が言ったのかはやっぱり思い出せない。
夏希を招待しなかったことが敗因だろうか、男二人が校則違反と法律違反を企むのに全校憧れのマドンナなんか呼べないというのは共通認識だったから、きっと企画のそもそもが間違いだったか見た目の通りそのまま健二が酒に弱いと判断してサワーやビールの他に強めの酒をいくつか混ぜて買ったことが浅はかだったのかのどちらかだ。
にこにことそれだけはいつもの顔の健二は動作に問題はないようだし気分も悪くなさそうだ。
しかし佐久間はこの友人が自分の前ではわりかし表情豊かで笑ってばかりではないことを知っている。
理不尽なことも言うし不満だって垂れる、愚痴だって吐く、こんな掴みどころのない顔はあまり見たことがない。
いつ変わったのか、少なくとも飲んでいたのがビールの類だったときにはこんなふうではなかったはずだ。
少なくとも数回、高校生同士のひっそりとした飲み会に参加したことのある佐久間は自分の許容量も、同年代の中でもそんなに弱くはないということを知っていたのに気付けば飲み過ぎていた。
そしてその上飲まされたのは割ってもいないウィスキー、少量といっても限界が近くなるのは必至だった。
「気持ち悪い」
「みれば、わ、かんだろ」
もうまともな受け答えすら苦痛だ。
胃液が揺れるのを感じている気がしてそれがさらに気分を悪くした。
幸いトイレは部室のすぐ側にあってそっと入れば警備員には気付かれることはないと、何度とない泊まりで経験していた。
問題はトイレまで歩けるか、ということと、歩けなかったとして目の前の見た目友人のような質の悪い酔っ払いが協力してくれるかどうかということだ。
望み薄いなーとどんなときもあまり冷静さを失わない頭の隅で自嘲するように思う。
「水いる?」
「いいよ自分で取る」
今のお前から貰うくらいなら、という言葉は飲み込む。
「じゃあ俺はこれまたあげるね」
にこーと滅多に自分には向けられない満面の笑みに、それから予想通り人差し指と親指で持ち上げられたウィスキーの、大きさだけは小さいと言える平べったい形の瓶がろくな光源もないのに光った。
揺れる琥珀の液体はまだ三分の一も減っていない。
殺す気かと今度はちゃんと呟いた言葉には大丈夫とまた笑顔が返る。
「ちゃんと水も飲ませてあげるし」
健二が振り向いて取り上げたビニール袋の中には500mlのペットボトルの水やお茶がいくつか、2リットル入りを買わなくて良かったと反射的に思ったのは嫌な予感のせいだ。
気がするのではなく今は間違いなく吐き気と妙な想像で背筋が寒い、それでも認めたくなくて眉根を寄せて健二を見上げる。
酔っ払いは佐久間を楽しそうに見て取り上げた袋の中から水のペットボトルだけを出して後はまた床に放る。
ボトルと床が触れるときの鈍い音、それから耳触りなビニールの擦れる音、耳から来る吐き気なんてのもあるのかと新たな発見には唇の端すら上がらなかった。
健二は水を口に含むと今度は間違いなく飲み込んで、それから脱力して寄りかかっていたパイプ椅子を降りる。
膝をついて目線を合わせてくるものだから床とくっついたズボンを気の毒に思いながら気を逸らして持ち上げられたペットボトルには見ないふりを決め込んでいた。
掴むように取られた顎に、また先の光景を思い出してしまう。
「はい」
初めは歯に当たった。
プラスチックと衝突した前歯はそれなりにじいんと痛んだのだけれど、それより反射なのか注ぎこまれる水を溢さないよう舌を広げて喉を鳴らす。
器官に入ってすぐにむせたから口に入れられた水のほとんどが床に散らばり、首元からびっしょり服まで濡らした。
咳き込みすぎたのか喉が痛い。
そのまま吐いてしまわない自分が不思議だった。
そういえば野球部の、先輩にしこたま飲まされたことののある奴が吐き慣れないときついぞなんて言っていた。
だいたい遅いのだ、その手の忠告があらわすことにぶつかったときには。
「あ、ごめん佐久間」
謝るときはいつも通りだと生理的に滲んだ涙でぶれた視界で思う。
お前のごめんってあんまり謝られてる気がしねーんだよとはいつかの自分の言葉だけれど。
悪いと思っていないけれど口から出てしまうそんなごめんが似合う状況というのは想像していなかった。
「お前なあ」
「濡れちゃった」
佐久間のものではなく自身のシャツを軽く引っ張って言う。
確かに佐久間が吐きだしたものなのかペットボトルから散った分なのかシャツと、それからズボンも軽く濡れていた。
そんなことより俺の心配をしろと身体の中の寒気だけではなく、実際にぐっしょりと濡れたことで身を震わせて恨めしげに見ていると酔っ払いは「どうしよう」と言った。
どうしようじゃねえよこっちは吐きそうなんだよ。
そうやって言う健二の世話を仕方ないと焼いてきたのは自分だが今度ばかりはわざとだ、と思う。
確信犯だろうお前、と指摘しなかったのはただ単に震えた歯の根がかちかち、と鳴って喋る気も起きなかったというだけだ。
一度大きく、背筋から全身が丸ごと震える。
それなのに口の中に上がってきた胃液はウィスキーが混ざりきったように熱かった。
明日はきっと喉が使い物にならないに違いない、あーもう明日とか来んのかな。
「佐久間、さくま」
「んだよ」
「寒い?」
「ったりまえだろ」
冬場に活躍するストーブにはまだ灯油を入れていない。
そもそも健全な、いや単なる酒飲みの場だったさっきまでは暑いとすら感じていたからカーディガンは今手をついている椅子の背にかけてあって、自分はシャツ一枚で、ずぶ濡れで。
そこまで考えて嫌になる。
視界がいつまでも鮮明にならないと思ったら眼鏡にまで水滴がついていた。
扱いにはあまり頓着しないけれど汚れているのはなんとなく我慢がならない、眼鏡拭きだけは後ろのポケットに入っていることに思い至ってまともに手に取れるのがそれだけだと気付くとやっと可笑しいと強めの息を吐く。
そう、と呟いた健二の手がまた顎の方に伸びて、またかとたった今緩んだ眉間に皺を寄せる。
しかし降ってきたのはアルコールでもなくペットボトルでもなくただの健二の唇だった。
あつい。
唇の温度はわからなかったのにぬらりと舌を入れられればそう思った。
ペットボトルをぶつけた前歯を内側からくる、と撫でてそれから上顎、舌の上、舌の裏、奥の歯と歯茎といっそ丁寧なくらい順番にたどる。
そのどれもであついと思って、追い出すために思いっきり八重歯をつきたてたのはその後だ。
「いたい」
片目を瞑ってそこから少し涙の玉を見せながら離れた健二に当然だろうがお前馬鹿かと言ってやりたかった。
けれど動揺した声を晒したくなくてぐ、と奥歯を噛む。
「なにすんの」
「お前こそ」
「あっためてあげようと思ったんだけど」
変わらず悪びれないその態度にきっといつもなら大きな溜息でも吐いていただろう。
あれ、と首を傾ける酔っ払いに対処する方法は経験したことがないからわからない、なんとなく野球部のあいつを恨む。
こっちが良かったかと健二が口に含んだウィスキーは舌を絡ませる間に汚い床と押し込んできた口に押し戻すことでなんとか倒れるとか、トイレに行く前に部室の床を夕飯のカップラーメンまみれにすることだけは阻止した。
なんとなく、身体は熱くなってきたかもしれないがさっきよりも危険な状態にいるのではないかとも感じている。
「アルコールがしみて痛い」
そうやって訴える健二にこれ以上飲ませない方法を、普段の自分ならいくらでも思いつくのだろうと痛むこめかみをやっと動かせる指で押さえる。
カーテンの向こうに見える夜はまだ底が見えないような気がした。
ケンサクと言い張っておこう。悪気なく佐久間になんでもやっていいと思ってる健二さんとそれをすげーいやだと思ってる佐久間がいい。
チャットお相手下さった皆様ありがとうございました!とこんなとこでお礼。
20091115