カセット・ラブソング
木陰の冷気を運んできた風は首筋を喜ばせたけれど眉根には僅かに困ったような皺が寄る。
そよ風にかき混ぜられた空気が埃ばかり含んでいると格子の窓から湿った薄暗さを照らす午前の光が教えてしまうからだ。
どうせ吸い込むことになるのなら知らない方がまだましだとぱふんと上がる小さなきのこ雲を彼岸の出来事のように眺めながら思う。
反射で身体はくしゃみをしたがっているけれど唇をぎゅっと閉じてそれを我慢している。むずむずとくすぐるような刺激に閉じたはずのそれがひくりとみっともなく痙攣した。
たっぷりと吐き出した後はまたそれ以上に吸い込んでしまいそうなほど埃ばかり密度は増して、そういえば出したものをそのまま広げているものだから膝を付いたこの格好も危うくなって歩くのは困難だと見回して気づく。物理的な窮屈さも空気中の埃の密度に近づいているということだ。
これがすべて整理されるころにはどれだけの埃を吸い込んでしまっているのだろう。その計算はさすがに途方もないかもしれないと一平方センチメートルの密度は大体どのくらいなのだろうかと思考を始めようとする頭を振った。
健二はせめて痺れ始めた脚だけでも伸ばせないかとそっと古雑誌の束と束を重ねて物理的な密度を減らしていく。
暗い場所だから見えなかったけれど細かい塵が飛ばなかったはずはない。
またむずと鼻と口の端が落ちつきなく反応した。
薄汚れたというより埃の色まで染み着いてしまったような段ボール箱から束ねられた本を持ち上げた佳主馬も同じにむず痒かったのかぎゅっと鼻頭に皺を寄せて、そのままくしゅんと我慢できず顔を背ける。
埃と一緒に癖一つ付かない髪が舞って、続けて二回三回と肩が揺れた。
マスクがなくともせめてタオルくらい持ってくればいいものなのだがそこまでやるのもなんとなく馬鹿らしいとつまみ上げた紐をだらんと力を抜いて置く佳主馬の背中の辺りから伝わって来る気がする。
実際そのように言われたのだ。
暇ならあんたたち自分たちの使う場所くらい掃除しなさいよと申しつけられたいつも佳主馬が根城に使っている納戸の整理と本の虫干しなのだが、今日は珍しく何も予定のないからと黙って頷いた佳主馬は進んで承諾したのではないらしい。
いつも使うわけではないし、捨てるのか取っておくのかごみなのかそうでないのかわからないものを整理できるはずがないと、そんな意味のことを呟いていた。
どうやら置いてあるものは本家の人間が読んだ本だったり使い古した道具だったり使われなかった粗品だったり誰かの忘れ物だったりするようで、要するにただそこに夏や正月の間居座っているだけの、思い出の品が何かも誰が使っていたものかもわからない佳主馬と陣内家で過ごした時間も短い健二ではまともな片付けはできないと踏んでいるということだろう。
実際その通りだ。
置いてある本や雑誌の価値でも知って分類ができれば少しは役に立つのだろうがそこは数学馬鹿とからかわれる言葉の通り数学の問題集や証明についての論文や雑誌とばかり仲良くしている健二にはさっぱりだった。
小学校の図書館に並んでいたような作品もいくつかあって誰かが子どもの頃に読んでいたのかも知れないくらいの感想しかもてない。
かと思えば年代の若い文学作品やパソコンソフトの参考書のようなもの、図鑑なんかもあったりするから脈絡がなさすぎてもしかして出して入れるだけになってしまうかもなんて思いながらとりあえず並べるだけ並べてみている。
気を抜いてつい勢いよく鼻から息を吸ってしまって床と同化しようとしている本たちを見ながら喉の痛くなる咳をした。
目尻にたまった涙のせいで眼の中にもごみが入って痛くなったように錯覚する。
滲んだ視界では床も本も道具もほとんど区別がつかない。
ここにあるもののどれもが古くなるのを急いでいるのかもしれなかった。
「大丈夫」
苦しげな咳を続ける健二にくしゃみを止めた佳主馬声を掛けたが手を上に上げるのに精一杯で答えられない。
咳と咳の間に吸い込む混じりものの多い空気がまた食道と肺をくすぐるからきりがない。
タオルの代わりにポロシャツの裾をめくって口に当てる。
思ったより汗をかいていたらしく脇腹の付近も隙間風を歓迎していた。
「ちょっと外でも出た方がいいんじゃない」
提案した佳主馬も言い切る前に小さくくしゃみをする。
何とか飲み込むことに成功した咳の後少しだけ笑うことができた。
「これさ、持てるのは持ってって、それでベランダででも」
「そうだね」
健二の言葉で改めて床を見回した佳主馬も溜息なのか笑いなのか判断がつかないものを漏らした。
じゃあこれとこれとこれかなと厚手の本の山からいくつかが廊下に押しやられる。
外に出されたことでやっといくつかのカバーが元は白や緑や青色をしていたのだと知ることができた。
「あ」
そこで初めて気づいたと言うように佳主馬が未だ段ボールに入れていたままだった手を上げる。
持ち上げられたのは本でも雑誌でも古いおもちゃでもなく濃い灰色をした紐の束の下に同じ色の塊を付けたものだった。
細かな埃に包まれているとはいえプラスチック製のそれが僅かに湿気を含んだ木材とぶつかり、かしゃと音を立てて押し退けた本のあった場所に広がる。
健二は名前を知っていたしいつか行った親戚の家か、父の実家でかそれを見たことがあった。
「カセットプレーヤー」
言ってから佳主馬は知っているのかと思ってそのまま訊いたら知っているけどと指に絡んだコードを解いた声はなんとなく尻すぼみだった。
「使ったことはない」
「そうだよね」
ポケットには入らない大きさのプレーヤーなら以前家で親が使っていたような気がする。
けれど健二が初めて自分のものにと買ってもらったコンポにはカセットを入れる場所はついていなかったし、そもそも何かの音楽をビデオテープに似たそのメディアに保存したことはなかった。
佳主馬の世代ならもしかしたら最初からパソコンを使っているかもしれない。
「使えるのかな」
「中身ないでしょ」
表面の埃を指で拭って横広い小窓を除くと白い車輪が二つ見えた。
電源と書いてある部分を押しても側にあるランプも小窓よりさらに小さな恐らく白黒ドットの画面も反応しなかった。
中身はあるようだが電池を消費しきっているらしい。
どのくらい前からかはわからないけれど本や雑誌と一緒に箱の中で眠っていたのだから当然だろう。
くるりと裏返すと自分の指まで景色と同化しそうな色だった。
納戸といっても掃除はされているからこの場所で過ごして汚れるなんてことはなかったのだけれど整理するつもりが今の段階では存分に汚して回っている。
「単三だね」
「動かすの」
「え、佳主馬くん聞いてみたい?」
電池カバーを外すと出てきた二本の単三電池は知っているメーカーで幸いなことに液漏れもないが錆は這っていたしレトロな雰囲気などどこにもないはずなのに古めかしい気がした。
動かすにはきっと新しい電池が必要だろう。
「どっちでもいいけど」
佳主馬の視線が仕舞われたものを無造作に出しただけの、このまま出し続けるのならいっそそのまま元通り直してしまった方がまだましに思える納戸の中を数回往復するようにして、それから健二の手の中で背中をさらされているカセットプレーヤーに戻る。
細い人差し指が床に転がった単三電池の端に圧力をかけてくるりとアンバランスに回した。
ひっかける場所などどこにもないはずなのに器用な指先は斜め上を向いたままの小さな円柱を二往復ほど踊らせる。
「電池、太助おじさんがいつも補充してるからあると思うよ」
思ったより鈍く重い音を立てて転がった電池もやはりすぐに床と同化してしまうように見えて、明るい場所から急に踏み出せば踏んで転んでしまうかもしれないなんて訪ね人のない納戸の入り口に視線を移して考える。
ちょうど日の当たる時間になったのか元より明るかったそこをさっきよりずっと眩しく感じた。
がちりと引っ掛かるように凹んだままの電源を元に戻す。
眩しさからの錯覚なのか思い込みなのか白い車輪がじりと回転したような気がして一人で目を見開いていた健二は取ってくると言って立ち上がり出て行った佳主馬を一瞬で見失ったと鼓動を跳ねさせて、しばらく明るさと暗さを行ったり来たり見まわしていた。
くしゃみが出たけれど日の光を見たせいなのか埃のせいなのかわからない。
そういえばちりちりと瞼を焼く光の輪のせいで空気中の小さな塵は見えなくなってしまっている。
手持ち無沙汰だからとりあえずと目が合った雑誌の山だけを廊下に押しやっておいたけれど、色の飛んだ写真のようにどの表紙も白っぽく見えた。
とんとん、と床を叩くようなそれでもしっとりと湿気を含んだ木材のせいで丸くなった足音を響かせて佳主馬が戻ってきたのは健二の瞼から静電気のような眩しさの残像が消えていくらもしないうちだった。
普通の家ならば少し遅いくらいの時間も広いこの家では早いと感じる。
思ったその通り早かったねと振り向くと佳主馬の顔は逆光で見えない。
転がった電池は手から落ちてきたのだろうか、それすらわからなかったけれどまだぴかぴかと真新しさを放って納戸の床にも、今では健二の手にもなじまない単三電池は転がっても見失うことはなかった。
良く見れば錆付いて転がったものと同じメーカーの製品だったけれど合っていると思えるのは文字情報だけだ。
飛び出ている針金のようなものに従って電池を差し込んでカバーをかけた段階でなんだかもったいないような気がしてしまう。
「これだけのために取って来てよかったの」
「後で戻しとけばいいんじゃない」
入口から一歩中に、いつの間に入ったのか佳主馬が屈んで健二を覗きこむ。
まだ瞼の裏がちかちかとしていたせいで一瞬光を集めた眼球の残像した認識できなかった。
視線はそのことを気にしてそれから学習性もなくまだ幅の狭い肩の向こうの明るさを見てガラス体を刺激するから手探りで電源を押す。
妙にはっきりとした手ごたえの後にぶるぶると細かな振動が伝わったような気がして、寝そべっていたイヤホンを佳主馬の左耳まで持っていく。
絡んだままのコードに嫌そうな目を向けたのに、指が耳を覆い隠していた髪をどけてついでにイヤホンの耳に接する部分だけを指先がやや乱暴に拭った。
手から奪われることはなかったので健二がそのまま耳のくぼみに装着する。
ねじ込むにもただ添えるにも中途半端な、かろうじて引っ掛かっているそれに眉根に皺が寄って視線が動く。
それだけのことを認識できるようになった健二の目からはやっとはぜる火花が消えていた。
「聞こえない」
「え」
きちんと填め込んでも首を振る。
指先が触れた髪が濡れていて人差し指から中指との間に落ちたものは人肌だったのかただぞくりとした感覚だけを残して温度を認識させないまま徐々に乾いていく。
もう片方のイヤホンを拾い上げた佳主馬の右手が手招きをして、考えなしに首を伸ばした健二の左耳にもイヤホンが掛けられた。
どちらも左耳に付けているからどちらかが間違っているのだろうがどちらもきっちりと合わせているとは言えないので判別できずにそのまま耳を澄ます。
確かに健二の耳にも音らしい音は聞こえない。
絡まったままのコードで思ったより佳主馬の鼻頭が近いことに気が付いたけれど、幾重に結ばれたようなそれをわざわざ解くならきっと片付けを再開した方が労力の無駄にはならないだろうし、解こうと顔を離せば容易に、ふらふらとぶら下がったイヤホンは落ちてしまうと想像がついた。
開かれたままで固定した瞳孔で、カセットが覗いていた小窓を見る。
ゆったりと白い車輪が回っていた。一回転するのは一秒より遅いかもしれない。
「これかな」
「それじゃない。でもテープって劣化するんでしょ」
「うん。まあディスクに比べればね。擦り切れるって言うし、あ」
「いたっ」
溝のついた丸い歯車のような突起を回すとそれが音量だったようだ。
じりりとかばりばりとか形容し難い、漏電したコードのような音がイヤホンの中ではぜた気がして、佳主馬が反射で右に顔を傾ける。
かろうじて掛っただけのイヤホンから漏れ聞こえた音を聞いていた健二の耳には大した衝撃もなかったのだが咄嗟に上げ過ぎた音量を下げ、何度か調節のために往復させた。
ぱり、と時折鼓膜まで飛ぶ電子音の奥から、誰か女性歌手のリードボーカルのような声と跳ねるベース音を拾った気がして佳主馬とは違う意味で耳を左側に傾けてしまう。
ただずれたイヤホンを直せばいいだけなのだが左手はカセットプレーヤーを握って、右手は佳主馬の髪をいじって下りた正座の太ももから動こうとしない。
「大丈夫。なんか聞こえるね」
「うん、よくわかんない」
佳主馬も怪訝な顔を徐々に右から左に無意味に傾けて耳をそばだてているようだったがむしろぼそぼそと話すお互いの声の方がよく聞き取れる。
想像した古臭い、例えばレコードから聞こえる昭和歌謡曲とか、そういうものではなくどこかのバンドのロックに近いもののような気がしたが、それ以上は聞こえたものを脳が補完しただけのような、思い込みだけで構成された音は急に勢いを増した蝉の声にかき消されてしまった。
じりじりと砂嵐より弱い電子音とみんみんと遠いけれど強い声が混じってもう何も聞こえないのと同じだ。
「だめだよこれ」
「うん。休憩しようか」
笑った健二を理解できなかったのか不満げというより腑に落ちないような表情の佳主馬の、耳に掛けた髪が落ち始めたのを見つけてもう一度手を伸ばす。
くすぐったそうに顔の中心に皺を寄せて頭を振った左耳から、硬質な音でイヤホンが落ちた。
重さに引かれた健二の耳からもそれが落ちて、理由のない距離の近さに散らばったコードに気を取られる振りをする。
はあ、と吐く息は雑音に邪魔されて聞こえなかったのだと知り、呼吸と呼吸の間で行き来する埃を意識した。
佳主馬が立ちあがって正体不明の息苦しさから解放された後も、左手の中のプレーヤーから目が離せない。
白い車輪が調子を変えずに回って、白黒のドット画面は気がつかないうちに「02」を表示している、零の中のいくつかが足りないままになっている。
行くよと外に出した古本を抱え上げた声に促されてやっと立ち上がり、絡まったまま、今度は正しくイヤホンを分けた縁側で並んで聴いたテープの音はやはり雑音ばかりだった。
B.G.M. 夏の決心
20100209