かいぶつのぼうけん




スパークで出した無料配布本の再録です。
ラブマシーンと初期ケンジが一緒にハロウィンのお祭りに行きます
ハロウィンなので仮装してます。他アバターも出ますがほとんど中の人などいない!状態。捏造がありますのでご注意。















円く切り取られた景色が二つ。自分の目には少し小さすぎると思う。

「だめだよ、また足が出てる」

導くように先を歩く魔法使いが大きくまるい耳と折れ曲がった帽子の先を揺らしながら咎めるように言った。
しゃらしゃら、と飾りの星が揺れている。
いつもは白い空と白い雲、淡いパステルカラーの浮遊都市があるはずの景色は夕方の薄い青でも、夜の色をライトアップした人工的な紺色でもない。
塗りつぶしたように黒い背景をところどころぼんやりとオレンジの光が照らしている。
だからただでさえ悪い視界は暗く、狭く、もどかしい。どこまでも見渡せる目が初めて頼りない。
枯れ木に掛けられた弱い明かりは、かぼちゃに穴を空けてそのなかで火を燃やしているのだそうだ。ろうそくを使うと言われても「ろうそく」がどんなものか見たことはなかった。
取り出して見てみたいと訴えたら今の君では燃えるからだめだとやさしいけれどきっぱりとした声で諭されてしまった。彼のようにうまく喋ることはどうしてかできないから残念だと記号だけで伝えるともしかしたらパーティで見られるかもしれないよと教えてくれた。
彼は自分の知らないことを何でも知っている。訊いてみたら「僕が知ってるんじゃなくて君が知らないんだよ」と返される。おかしいな。なんでも知ってる、きっと。ただ見たことがないだけで、聞いたことがないだけで、経験していないだけで。普通はそれを知らないというらしい。知識だけではいけないらしい。
確かに言葉は知っているし言われている意味を理解することもできるが発音だけはついぞ上手くいかない。それは彼曰く、自分を通して誰も言葉を使ったことがないからだそうだ。誰かが自分を通して誰かと話す。例えば自分と彼が、自分と彼ではない人間としてふるまって、自分や彼ではないとして話す。それはどんな気分なのだろうか。想像もできなかった。
「自分じゃないって言っても似たようなものだよ。僕はその人から生まれたからね」もうそうすることはないけれどとときどき遠くを見るように話す彼を見ると鋭い歯の奥をくすぐられるような、何もないはずの胸の真ん中辺りをつねられるような妙な感覚を覚える。それが何かは、やはり知らないのだろう。自分であって自分でない誰かは、それが何なのか教えてくれるのだろうか。彼には訴えられないことを訊かなくとも理解させてくれるのだろうか。
想像はするけれどきっとその時は来ないだろうと思っている。今日だって特別なのだ。ハロウィンは仮装して死者が戻ってくる日なのだそうだ。戻ってきても気づかれない日なのだそうだ。自分たちは人間ではないけれどおそらく死者だ。
魔法使いの格好をした彼と、どんな格好をしたってどうしても目立ってしまう自分はこれでいいかと大きな白い布をかけられた。空いた穴が二つ、それでおばけの仮装ができあがり。ううん、こんな大きいお化けいるのかな。彼の独り言はなかったことになったみたいだった。長い手足がはみ出すからその度に注意される。

「靴でも履いてくればよかったね」

お化けはきちんと靴を履いたりしないとそれくらいは知っていた。

「中身が見えるよりはいい案だと思うけど。黒い布でも中に着る?」

これ以上布を被せられたら何も見えなくなってしまいそうだ。首を振ったらまたずる、と右目の視界がなくなった。手を出して直そうとするとそれもだめだと言う。

「中から直さないと。君、有名なんだから」

有名と言ってしまえば彼だって有名だ。マントと帽子だけで隠すことができるのだろうか。

「僕は小さいし、目立たないから」

揺れる大きな耳は片方だけ三角帽子の中にある。もう片方はどうしたって入らなかった。曰く、マントを被れば顔は隠れる。
中心街に近づくに連れ、ふわりふわりと漂う者、横を歩いている者が増えてくる。狼男や箒に乗った魔女、元気に走って行ったのは大鎌を持った死神というもの。顔は見えたり見えなかったりしているけれど確かに自分たちが特に目立っているというわけではなさそうだった。
彼はそっと帽子のつばを斜めに下ろして、気をつけていこうねと言った。
OZで開催されるハロウィーンパーティーの招待状が届いたのはおそらく手違いだった。
かぼちゃ色に蝙蝠の羽根で封をした招待状は彼と自分の分きちんと二枚あったが登録者のところは文字化けしていた。こんな招待状で大丈夫なのか、仮装してお越しくださいの言葉の通り仮装して会場への門まで行くときちんと処理された。持ち主のいないアバターというよりほとんどバグに近い存在であるから何の権利もないはずだ。誰かの分が間違って届いてしまったのかもしれなかった。
それにしても自分たちですら明確に示すことができない座標がどうやって解析されたのか。かつては持っていたあらゆる知識も権限も、今はもうないからわからなかった。
行ってみようと言ったのは彼だ。二人だけで過ごすのは悪くないけれど寂しいのは寂しいからねと、その言葉の意味を問うと、「四億から二人になったときと似てるかな」と言われた。消えていく感覚とか、繋がらなくなる意識とか、その時のことは正直あまり覚えていなかった。「たくさんだったんだから当たり前だよ」たくさんあるとわからなくなるらしい。仮装の群れに紛れてしまう今日の自分たちと同じだ。

「ああ、そうだ。トリック・オア・トリート」

「?」

「ハロウィンはこうやって言うんだよ。これを言われたらお菓子をあげないと悪戯されるんだ」

「!」

みんなお化けとか妖怪だからきちんともてなさないと。そう言うけれど自分はシーツの中には何も持っていなかった。そもそも仮想都市にお菓子なんてあったのかと首を傾ける。
左足で見えてしまったとわかったから言われる前に右足一本で立った。こうすれば覗かれてもわからないかもしれない。こういうふうにするのが得意だということは覚えていた。
覚えていることと覚えていないことがある理由は自分でもあまり分からない。「殴られたときに落っことしたんだね」落っことした部分はどこかまだこの都市を漂っているのかもしれない。自分と同じように。
言われたらどうすればいいのかと尋ねると待っていましたとばかりに彼が笑う。楽しそうな顔を見られたから、こんなものでも被ってきて良かったと思った。
「そんな君に魔法使いから。特別だからね」

マントの中から出てきたのは小さな籠に入った色とりどりのキャンディだった。いつの間に用意したのか。驚いているのがわかったのか彼がくすくすと笑う。

「本当はね、これも届いたんだ。招待状と一緒に。誰かが招待してくれてるみたい」

二人分で分けたけど無くなったらもう僕も持ってないからねと渡された籠を、布越しに落とさないようにしっかりと持つ。中に入れたら取り出すときに見えてしまうだろうから隠すことができない。 剥き出しだから取られちゃうかもねと言う彼はやはり楽しそうだった。こんな顔はあまり見たことがないと思ってまた何もない身体の真ん中辺りと引っ掻かれたような気分になる。自分といるときの彼はいつも少しだけ「寂し」そうだ。

「行こうか」

パーティ会場は以前自分が閉じ込められた大きなネコの近くにあるらしい。あれにらくがきしたとき、彼は自分の一部でしかなく、姿を借りたものでしかなかった。 白いはずの頭はやはりぼんやりと薄いオレンジに発光し、ろうそくの入ったかぼちゃが頭の上に三つ重なっていた。中を覗くとろうそくが見えるかと思ったのに眩しくて光以外の何も認識できなかった。飛んだら後ろから中身が見えるかもしれないと心配で度々振り向いていたらまた笑い声がする。彼が困るからと心配しているのに。

「それ、失敗だったかな。飛べないね」

神妙に頷くと魔法使いは、魔法使いであるにもかかわらず「僕もなるだけ飛ばないようにするから」と言ってくるりと回った。ざわめきが近付いている。

「あの、すみません」

唐突に掛けられた声に籠を持っていない方の手でぎゅっと布を握る。先を行く彼の姿がアバターの波に紛れて一瞬見えなくなったけれど振り向かずにいられなかった。この声を知っている。以前同じように声を掛けられたことがある。そのときは彼の姿を借りていて、覚えている一部だった。

「すみませんっ、あの、とぉ、りっくおあ、とりーと」

拙い発音だったけれど先ほど彼に教えられた言葉だとわかる。籠を差し出したのは相手が俯いているからで、会話の手段を他に持たないからだった。
それに気付かれた場合どうするかも、彼には教えてもらっていない。
頭としっぽがやたらと大きく、お腹の丸い黄色いリスが視界の下の方で縮こまっている。やはり知っている、知っているというより彼だったものが、自分が関わったことで今は黄色いリスに変わったと言った方が正しい。背中には黒い蝙蝠の羽根としっぽの上からもう一つ黒いしっぽが垂れている。大きな頭の上にはちょこんとシルクハットが載って、その間からしっぽと同じ細さの触角が二本突き出ている。悪魔だろう。
悪魔だろうとは思ったけれどその知識はどこからか拾ってきたものらしく、悪魔がどんなものなのか、何をする存在なのかそこまではわからなかった。

「あ。ああ。ありがとうございます。その、知らない人に言うのが、ど、度胸試しとかで。あなたがお菓子を持っているのが見えたので、それで」

気付いたから声をかけたのではないらしい。考えてみればあの事件で関わったといえど、だからこそ自分は消滅したと思われているのだ。まさか招待されて会場にいるとは思わないのかもしれない。
今度は膝を曲げて低い背でも取れるように屈んでやる。気付かれなかったことに安心したけれどちょっとだけ気付かれてもよかったかもしれないと思った。

「すみません。これ僕の。交換ですね」

籠の中の一つ、赤い包装紙のキャンディが取られて代わりに載せられたのは金色で、円錐形をした包み紙「チョコレートです」と説明がつく。

「僕たち、食べられませんけど。それでもアイテムの一部って扱いみたいですよ」

チョコレートをまじましと見ていたらそんなふうに言われる。説明が欲しかったのではなく驚いていただけだったのだが、彼以外には自分の感情の動きは伝わりにくい。
喋らずに感謝を伝えるにはお辞儀をすればいいのだったか。後ろが浮いてしまわないように注意しながら身体を折る。ゆったりとした礼にリスも頭だけを傾けた。これ以上下げたら頭から地面に追突しまうのではないかと思える。

「何もたもたしてんだよケンジ、お菓子もらってくるだけだろ」

「なっ、サクマがもらってこいって言ったんだろ。急に言われてこの人も困ってるんだから。交換」

「そういう行事だろ。あ、どうもすみませんこいつが」

遅れてきたアバターは頭を下げなかった。そもそも頭しかない。
平面の頭が動くたびにぎちぎちなのかぴこぴこなのか電子音のようなものがする。荒い粒子だけで構成された顔には大きな赤い眼鏡、茶色い頭には螺子が何本か刺さっていて覚えている範囲では薄い色をしていた肌の部分が青くなっている。これは何の仮装だろうか、後で彼に訊いてみなければ。
そう思っているとどこからか出てきた手からクッキーが籠の中に落ちる。そのまま手の方に差し出すと濃いグリーンの包装紙のキャンディがまたどこかに連れられて行ってしまった。

「ありがとうございます。それ結構レアなんですよ」

お詫びですと言われても何がレアなのか自分にはよくわからない。またじっと籠の中を見て、それからさっきと同じように礼をする。話さなくても奇妙に思われないのがいいな、と思った。お化けは饒舌ではないだろう。

「すみません、連れの姿が見えなくて探しに来たんですが」

背後から彼の声がした。そっと、動かないでと言われる。布の陰に隠れるようにしているらしかった。

「ごめんなさい、僕がつかまえてました!」

「あぶなかった。こんなとこじゃはぐれたらわかんないですもんね」

「ほら、迷惑かかってるじゃないか」

そう言いあう二体に彼がふふ、と言った。笑って漏れたのではなく言ったのだな、とわかる。

「いいえ。こういう場所には慣れていないので、交換してくれて助かりました。誰ももらってくれなきゃどうしようって言ってたんです」

「あ、あなたも」

「僕はいいですよ。分けて食べますから」

行こうと布が軽く引かれる。できるだけ彼が見えないよう注意して、もう一度だけお辞儀をした。随分慣れてきた。
リスだけが返して、前を向いた後振り返ると何かを見つめるようにまだこちらを見ていた。驚いたように円くなった目、視線の先には魔法使いの星飾りがある。

「おい、ケンジ行くぞ。今度は知り合いに」

「うん。もう、最初からそうしてよ」

それより後の会話は、ざわめきに紛れて聞こえなくなった。

「もう、いきなりいなくなるし、話してるのはあの二人だし、早速ばれちゃったのかと思ったじゃないか」

謝るとやっと立ち止った彼は腰に手を当てて、まあばれてなかったからいいよ、と言った。ちりりん、と飾りが音を立てる。 今度見失ったときにはその音を頼りにしようと思いながら、もらったお菓子の入った籠を上げた。

「ふうん、いいやつって。サクマのことだからプログラム関係なんだろうけど。え、あれ?あれはフランケンシュタインって言って、何だろう。サイボーグというか、人間を改造しててね」

以前の友人の話をする彼は、想像していたより沈んではいない。元気そうでよかったとも言ってすっきりしたように笑う。寂しいのかとさっきの声で思っていたのにわからなくなる。経験していないから隠し事に気付かないだけだろうか。
フランケンシュタインのことはどうやら顔が真っ青で強いらしいということがわかった。頭の螺子は改造された跡なのだそうだ。人間はもろくて壊れやすいのだから二度と人工衛星なんか落としてはいけないと教えられたのに頭に螺子を入れるのは平気な生き物らしい。
悪魔は地獄の悪い奴ということだが、あのリスはどうやっても凶悪にはならないと意見すると噴き出された。

「あれが凶悪っていうんなら君なんか魔王だね」

まおう、まおうとは何だろう。また地獄の生き物だろうか。

「うわー!ちょーこえー。ジェイソンだ!」

「ジェイソンだ!」

「ジェイソンだーやられるぞ!」

「よし、反撃作戦会議を行う!全員しゅーごー!」

「らじゃー!」

まおうが何なのか考えていたら三つ咲いたひまわりの鉢植えに地面についていた布の部分が踏まれる。大きな新幹線には羽根が付いていて頭上でくるんととぐろを巻き、奇妙な動きをするネコの様な骸骨が気付けばその真ん中に浮いている。囲まれてしまった。
三体とも三角帽やかぼちゃを載せていた。

「われわれのお菓子をとられるのは絶対に避けたいであります」

「その通りだ。われわれの任務はお菓子を守ることだ」

「守らないでよろしい!あげるって言ってるのにどうして逃げるの」

「でたー!」

三人だけのお菓子を守る会が声を上げた方を見ると、長い髪にぴんと小さくたった耳、ぴったりした衣装に裾がほとんど破れたようになっているスカートを履いて手にはチェーンソーを抱えた彼ら曰くジェイソンがいた。
ジェイソンもまおうと同じく未知のものだ。ただチェーンソーが木を切る道具だと、それが振りあげられていることはわかる。あのときは袖のたっぷりとした、和服と呼ばれる種類の衣装を着ていたと思い出す。

「ナツキ、ちびたちが怖がってるからそれは下ろしなさい」

「下ろすってどこによ。せっかくかっこいいって言われると思って気合入れてきたのに」

ぶん、と軽々チェーンソーを振るう。後ろからついてきたのは黄緑の身体をして頭の上にアンテナを二つ付ける力の抜けるような顔のアザラシで、きっちりと燕尾服の様なものを着こみ、襟の立ったマントをばさりと翻した。

「お菓子あげるからおいでって。どうも、すみません」

やっと三人組が何かを盾にしていることに気がついて、チェーンソーを両脚に隠すように下ろして苦笑する。つられてお辞儀をした。
狭い視界で横を窺うと彼は鼻先までマントを上げて帽子のつばで隠すように俯いた。

「いいえ。大丈夫です」

応える声も硬質だった。

「あー、えっと。この子たちいらないみたいだし、良かったら交換してもらえます?」

おずおずと言われたその言葉に、彼の代わりに籠を上げた。

「ごめんなさい。ありがとう」

濃い青の包み紙のキャンディがなくなって、代わりに色とりどりの楕円形が入った透明の袋が二つ落とされる。

「グミなの。二人分ね。迷惑かけちゃったみたいだし。この子たちはいらないみたいだし」

そうやって目を細めて後ろを窺う。布を踏んでいる鉢植えがぴくりと動いてずり落ちないように中からつかまえる。

「ジェイソンがお菓子をあげたのを確認しました」

「どうしましょう予想外のじたいです」

小さな話声はジェイソンにも聞こえているようでぎゅっと目を瞑って唇を噛み、笑うのを堪えている。

「あーお菓子、あと三つしかないなあ。他の人にあげたらなくなっちゃうかも」

その言葉をきっかけにばたばたと鉢植えと新幹線とネコの骸骨が前に回って「おかしをくれなきゃいたずらするぞ!」とばらばらに言った。ジェイソンはわかればよろしいと胸を張って、それぞれに袋を配る。
用意してあったのかグミよりもたくさんのお菓子がそこには入っていた。しかし三体はお菓子をもらうとすぐに「たいひー」「たいひだー」と言ってジェイソンから逃げ出した。それを追いかけて風のようにジェイソンも視界からいなくなる。

「もう、試合はじまっちゃうじゃない!」

悔しげに、それでも楽しそうな声だった。

「すみませんでした。お騒がせして。あの子たちはまだ小学生なので」

「いいえ、楽しかったですよ。よかったらあの子たちにもあげてください」

彼が自分の籠から四つのキャンディを取り出してアザラシに渡す。アザラシはこんなものしかないんだがと四角い粒を彼の籠に落とした、キャラメルのようだ。これも二つある。

「では、どうぞ楽しんで」

服に似合う恭しいお辞儀をして、ジェイソンと子どもたちが走って行った方に向かう。返したお辞儀は間に合わなかったかもしれない。
ふよふよと飛んでいく後ろ姿はマントとアンテナしか見えなかった。

「はあー。何で見つかっちゃうんだろうね。気付かれなかったのかな。自信ないけど。あ、あれは伯爵だよ。ドラキュラ伯爵。ヴァンパイアってわかる?血を吸うんだ」

血を吸うのがどうして伯爵なのか、そもそも伯爵とは、人間にあるという血も流れていないものだからほとんどわからなかったが、とりあえず頷いておく。
「ジェイソンはね、ホラー映画で、あのチェーンソーで人を襲うんだよ。伝説とかじゃないのになんでジェイソンなんだろう」

そう言って彼は出ていない額の汗をぬぐった。ほっとした、ということだろう。これだけ多くアバターがいるというのに関わった者ばかりに声を掛けられるというのは思ってもみなかった。
あの鹿は彼と会っているだろうからあんなに近付いて気付かれなかったのはおそらく子どもたちがいたせいだろう。

「試合、あるって言ってたね。見に行く?」

深呼吸をした彼が向き直って言う。しあいという言葉に心当たりはない。パーティに行くのではなかったのだろうか。

「試合っていったらマーシャルアーツだよ。それに、あの人たちが見に行くなら多分出る、というかまあ出ないとおかしいかもね。君は多分、というかそれじゃあ出られないだろうけど」

苦笑いをする彼にやっと思い至った。試合とは格闘のことで、格闘と言うならおそらく彼以外では一番覚えていることがある。記憶が零れてしまったのもそれに殴られてしまったからだけれど。

「ああ、でも今の君の中には誰もいないから、試合できても勝てないかもね。ドーピングってやつじゃない」

何もない暗い身体を見下ろす。確かに今の自分のなかには過去に吸収したものは何一つ残っていない。ただ知識とか、情報とか、そういうものだけが点としてぽつぽつとこびりついている。
一つだけになってからのことはほとんど彼のことばかり記憶している。意思の疎通がまともにできる相手は彼だけで、自分の言葉に笑ってくれるのも、咎めてくれるのも彼だけだった。
ただ、一本足で立つのが得意なことだとか、長い手足だとか、そういうものをまだ持っているせいであの格闘の感覚を思い出す。蹴りを繰り出す、飛び跳ねる、存在しないはずの筋肉が収縮して骨を軋ませて相手を叩く。そのときだけは空ろな身体に何かあると思っていた。今それをやったら、やはり打ちのめされてしまうのだろうか。

「ううん、あっちみたいだけど。見られるかなあんなにみんな集まって。パーティ会場には行かなくていいの」

ショッピング街を伝って、格闘場として使われる広場に降りる道を彼の背に着いていく。
異形の数はどんどん増えて、そしていつの間にか聞こえるのは歓声や怒鳴り声のようなものばかりになっていた。その場所だけはいつものように白い明かりに煌々と照らされている。ただ場の床面はオレンジ色に塗り替えられ、黒く切り抜かれたかぼちゃが笑っている。あの床を踏みしめて飛んだ。叩きつけられた。
例えば今倒れている白と黒、チャイナ服を着たパンダのアバターのように。立っていたのは細長い鼻頭に凹凸のある身体、「あれは、トカゲだね」ワニに似ていると思った。茶色い藁でできた上着を羽織って腰にはがちゃがちゃと刃物をぶら下げている。頭の後ろには赤いお面がかけてあった。
「なまはげ?」なま、もはげ、も知っている単語だったが繋げても意味はわからなかった。そういう生き物がいるのだろうか。

『さあて勝ち抜き戦、残ったのは優勝候補ではなくまさかのダークホース!挑戦者はなまはげの仮装なのに何故か中国拳法の使い手。パンダなのに何故か柔道の達人だったウーを倒し、挑むのはもちろんこいつだ!おっと今日はこっちも日本の妖怪で登場、烏天狗のキング・カズマだー!』

切り抜いたかぼちゃをそのまま被って格闘場の床と同じ顔で笑う司会者のアナウンスと同時に歓声が身体を震わせるほど大きくなる。スポットライトが会場の右端に当たった。誰もいない。
カン、と硬い者同士がぶつかって立てる音が大音量のなかでも響いて、その一瞬で静かになる。
遅れてしゃら、と金属が擦れ合う。彼の帽子の飾りよりは重く、しかし澄んだ音だった。黒い、纏ったことのない色の羽が遅れて落ちた。アイテムの一つであるはずのそれが羽ばたいて見える。

「天狗は、日本の山の守り主みたいなものかな。烏天狗は山で修行して徳を積むんだっけ」

音を立てたのは足元に履いている高下駄と手に持った長い杖にかかる金の輪だった。何なのか訊きたかったけれど天狗の説明をしたきり彼は黙ってしまった。
その場にいる全てが、自分と、彼と、同じように黙っている。
つんと突き出た鼻頭から後ろにゆるやかな直線をたどって二本の耳がある。額にはゴーグルではなく多角形をした赤いお椀のようなものが太い紐で結ばれていた。
服は、今日はジェイソンだった鹿が来ていたものに似ていたけれど、大きな飾りのついた上掛けと数珠がふらりと揺れる。
鋭く赤い眼はあの日見たときと同じだった。長身のすらりとした兎は睨むように前を見ている。

『キングも仮装とは、何で烏天狗なのかは答えてもらえないんだろうけど!さあ早速始めるぞ。レディー』

ファイト、の声とともにまたカン、と下駄が鳴る。金の杖ががりりと床を削り、踏み込んだ軸足に体重が移動してトカゲのわき腹に蹴りが叩きこまれる。
抵抗になっているはずの羽の重みが微塵も感じられない速度だった。
腰の包丁ががらがら鳴って邪魔をするから相手は吹き飛ばされることはない。カウンターに突きだされる拳を上半身だけ反らしてかわし、伸ばして掴まれた足は引かずにそのまま身体をくるりと反転させて外す。着地は軽やかだった。
また黒々とした羽が舞う。
素早く繰り出された拳は今度こそ相手の顎より下、長い首の辺りに命中してトカゲの身体がふらりと揺れる。続けざまに下から蹴りが入る。またふわりと身体が浮いてしゃらん、と杖が格闘には不釣り合いな澄んだ音を立てた。
それを持っている左手はほとんど使っていない。
揺れるように不規則な動きで繰り出された拳をいなし、蹴りに蹴りをぶつける。その足から高下駄が一足、突き抜けるように吹き飛んだ。
下駄は加えられた力とその重みで、観客の首が追いつかない速度で飛ぶ。気にする様子もなくとうとう一度も左手を使わずに五度目、命中した蹴りに相手が場外近くまで吹き飛ばされた。
直前に立てられた一際甲高い残ったあと一つの下駄の音と、また涼しげに鳴った杖の音を聞いてそうしてやっと大きな歓声が戻ってきていたのを知る。
下駄と、杖の輪が鳴らす音、それ以外は何も届いていなかった。
司会のかぼちゃが何か言っているけれど音の渦の中ではマイクもろくに役に立っていなかった。
格闘場の烏天狗に次々とハロウィンのお菓子が投げ入れられる。うるさそうに、顔に落ちてきた分だけ手と杖を使って払っている。

「ねえ、ねえ。それ!下駄」

彼が呼ぶ声にもやっと気がついた。手に持った籠には烏天狗の下駄が刺さっている。クッキーやチョコレートは割れてしまったかもしれない。
飛んできた下駄を受け止めたのは飛んできたからでも、受け止められると思ったからでもない。止めることができるか試してみたかったからだ。何もないこの身体でもできることを知ってみたくなった。
格闘場にゆっくりと足を進める。彼は導いてはくれなかったけれど、それでも着いてきてくれているらしかった。小さなしゃらしゃらという音、それを今は頼りにすることができる。
避けるように割れた道の先に一つ下駄を無くした烏天狗が立っている。
降り立った床の硬さに飛び込んだことも、芸術のように繰り出される技を重さで跳ね返したことも、耳飾りをとばされたことも、映像を見ているような再生が布の中の暗闇で起こった気がした。
籠ごと差し出した場所に、白い手が伸ばされて下駄を取る。からん、とそれが転がってへこむように空いた隙間に柔らかいものが落とされる。小さく紙につつまれたそれが何なのか見ただけではわからない。さらに差し出した場所から一つ、黄色のキャンディが取られていく。
デジタルでできた籠は、もうほとんど元に戻ってしまっていた。中身もそうだといいと思った。

「カズマ!」

呼ばれる方向に兎が振り向くと同時にくん、と後ろから布が引かれた。帰ろう、という意思表示だとわかってそっとお辞儀をした。兎は、見ていなかっただろうけれど。
少しずれた視界を直すように布の中で手を動かして、それが息苦しいと思う。暑いと感じたことはないのにこれが温度の上昇というものではないか、と思った。パーティには、行かないことになったらしい。
そっと、かぼちゃが照らす道に星の音が連れて行く。

「キングは、何をくれたの」

わからないから籠をそっと上げると包みを取り上げて開いてくれる。ころりと出てきたのは小さな四角いスポンジケーキだった。かぼちゃで作ってあるということなのだろうか、オレンジ色をしていた。

「お菓子、いっぱいもらったね。君の方が」

ふるふると頭を振った。自分を連れてきたのは彼だろう。そして元々あった人はみんな彼の知り合いだった。本当なら味方だったはずで、隠れたりしなくともお菓子をもらうことができただろう。
お化けをつれていなければ魔法使いは仲間に入れてもらえたのではないかと思った。今なら彼は寂しいと感じることなく笑うことができるようになるのかもしれない。

「ああもう、そんなふうにするために連れてきたんじゃないのに」

気を使わないでと彼は残っていた最後の一つのキャンディを差し出された籠に乗せた。

「あっちにいても寂しいのはいっしょなんだよ。わかってないんだから。今日だけ特別で、楽しくて、それでいいの」

交換、といって残っていた最後を取られる。残っていた色も、新しく置かれた色も同じだった。黒い道を照らす光と、かぼちゃのケーキと同じオレンジ色は今日もらったお菓子のどれよりも小さかった。
小さな視界で彼の星が揺れる。きら、きら、とろうそくの灯りを反射してきらめくようにまぶしい。
お化けになって見た狭い視界は魔法が解けても覚えていられるだろうかと彼の背を追いながら思った。












20091101