純愛コンプレックス チョコレートタルトの秘密










やっと会えたと微笑んだ顔は初めて逢ったときよりずっと綺麗に見えて少年は大きな目をただただ円くしてもう一度呼びかけられるまで口を開けて見上げるしかなかった。
気付かず握り締めていた右手を持ち上げられて丁寧に開かされるとそこにぴかぴかの百円玉が載せられる。
返ってきてしまった。

「君の連絡先も訊いておけばよかったですね。電話をいただけないから忘れられてしまったのかと」

「や、あの。おれケータイ持ってなくって」

また右手をぎゅっと握ったら汗で湿ってしまっていたのかすべって落ちてしまいそうになる。
下を向いてもごもごやっているとわざわざしゃがんで覗き込まれてしまい、目の前に来ないでほしい見ないでほしいと無理なことを思う。
だってまっすぐ視線を返すことができないから。

「そうでしたか。悪いことをしました。家に帰ってからでは面倒ですものね」

「面倒なんてっ」

掛けられなかっただけなのだ。
何度も何度も番号を押して最後の桁で慌てて受話器を置く、今は忙しいかもしれない運転中かもしれないたかが百円貸しただけの小学生の事なんて覚えていないかもしれない。
そんなことを何度か繰り返していたから彼の電話番号はすっかり頭に入ってしまった。

「僕も仕事で少ししか居られなかったので。待たせたことがあったらすみません。改めてありがとうございました」

「いえ、あの。どういたしまして」

丁寧にお礼を言われてそうしてどうしたらいいのか分からなくなる。
これですっきり何事もなかったように帰られれば子どもである綱吉に大人の彼を引き止める理由はなくなってしまう。
電話番号を知っていたのに掛けられなかったのだからこれからもきっと連絡する勇気なんて湧いてこないだろうし、仕事だからと断られれば反論なんてできない。
あのとき、自動販売機で困っているときに思い切って声をかけて良かったと帰った直後はただ嬉しかったけれど、今は悪かったとも思っている。
声をかけなければ接点もなかっただろうしこんな風に近づけることもなかった、けれどもう会えないかもしれないと思い悩むこともなかった。
視線をさまよわせて口実を探す。
だいたい綱吉は遅刻の言い訳も問題が分からないときの問い方も下手だからいつも身の回りの大人であるところの教師に困った顔や苛々した顔をされる。
この人にそんなふうに思われたら耐えられない、けれど引き止めなければ終わってしまう。

「あの、綱吉くん?」

「えええうわ、はいっ」

考え込んでいると向こうから呼びかけられた。
一度名乗っただけなのに下の名前まで覚えていてくれたのは単なる頭のいい人なのだろうか、それとも、少なくとも嫌いだとは思われていない?
舞い上がってしまいそうになって落ち着けと手のひらから流れた汗を慌ててズボンで拭う。
右手にはまだ百円玉、財布は背負ったランドセルの中だ。

「君が嫌でなかったらなのですが、なんというか、これから時間はありますか。さすがに君のような年代の子からお金を借りて返しただけなんて大人の顔が立ちません」

「ええ、えっと。それは」

「何かおごります。ケーキでもアイスでも、好きなお店があれば僕は車ですので送っていけますよ」

相手がおじさんじゃ君は詰まらないですかねと問われればそんなことないすっごくうれしいですと返すしかなかった。

「あ、寄り道は禁止ですか?」

「え、いやあの。ばれなければ」

なら秘密にしてくださいねと微笑まれてこれは夢ではないかとくらくらした。
熱くなった頬は車の中に乗り込んでまたさらに温度を上げる。

「シートベルト、ちゃんとするんですよ。あ、届きますか」

「おれそんなに小さくないですっ」

「クフフ、それは失礼」

そうっと優しく頭を撫でられるのは完全に子ども扱いだ。
そうやって可愛がられたりするのはあんまりなれていないので何だか照れくさいのと同時に胸の中がもやもやする。
もうすぐおれ十歳になるのに。
それでもこんなに手も身長も大きくてかっこよくて、スーツの似合う大人には相手にされない、とそこまで思ったところではたと気がつく。

(おれはむくろさんにどんなふうにしてほしいんだろ?)

一人っ子で兄や姉がいたことはないし、近所の子どもからは虐められるばかりで年下として可愛がられた経験はないからそう考えた経験はなかった。
ただこの人に対しては、今までにないくらいに好かれたい、気に入られて甘やかして欲しいという気持ちがほろほろと降ってくるよう。
少ない人生でもその性格からか諦めることの多かった綱吉はそれでも彼に同級生や教師たちと同じ扱いをされれば耐えられないと想像しただけで咽喉がつまり息ができない。

「あの、おれあんまりじぶんでいかなくて」

「そうですよね、禁止ですし。僕おいしいケーキ屋さん知っているんですけれどそこでいいですか?」

あくまで綱吉を優先するかのような気遣わしげな問いかけにもどぎまぎしておもちゃのようにがくがくと首を縦に振る。
よかったじゃあ行きますねと滑らかに車が発進した。
そういえばシートは触り心地が良くクッションは綱吉にとっても硬くなく適度に沈む弾力で座りやすい。
見た目もシャープでテレビで見た格好いいやつに似ていたからものすごく高いものだと値段もろくに分からないまま考える。
しかしその思考も運転をする彼を見ているだけでどこかに行ってしまった。
ハンドルを握る筋張った指と手の甲、銀の腕時計を巻いた骨ばった手首と長い腕、同じ高さに細いけれどきっと筋肉の付いた胸。
あの中に潜り込んだらこの間の、あの香りがもっと近くなるのだろうか。

「ちょっと奥まったところにあるのできっと見つかりませんよ、綱吉くん?」

(ぎゅってされたら)

「綱吉くん?」

「わっ、あ、はい。む骸さん前!」

「信号です。やっぱり詰まらないですか。無理矢理連れてきてしまったみたいで」

眉根を寄せて本気で寂しそうな顔をする。
やっぱり格好良くいいお兄さんでいるべきでしたという姿は何だか大人の男の人なのに泣きそうに見えた。

「い、え。おれ。あの、うれしくてきんちょう、して」

あわあわと上手く喋れている気がしない。
いつもそうなのだ、何かをやろうと意気込むと緊張してうまく行かない、ただでさえだめだめのダメツナなのに。

「だめつな?」

「へ?いや。おれなにやってもダメだから。あだ名」

独り言はエンジン音に紛れて聞こえないと思っていたのに拾われてしまった。
自分のだめっぷりはクラスメイトには笑われて教師にはどうしようもないと呆れられるくらいなのだ。
小学校なら成績の悪い子でもスポーツができたり人気者なら認められるけれどなにもかも、得意なことなんて一つもない。
きっとこの人もすっごく優しい人だから丁寧にしてくれているだけに違いない。

「綱吉くんは駄目じゃないですよ。誰ですかそんなことを言うのは」

「は」

適当にごまかして慰められるだけだと思っていたのに返ってきたのは怒ったような否定で、車が動き出してからむっとした表情をした横顔を見ても信じられなかった。

「や、あの。おれ、運動も、勉強もできないし。友達とかいないし」

そんなに強く、しかも自分にとって肯定的な意味で言われるのは初めてだったのでどうしたら良いのかわからない。
それにこの人と会うのは今日が二度目で、どうしてほとんど会ったこともない人が自分の為に怒ってくれるのか、ひどく動揺した。

「見ず知らずの人間に親切にできる子なんて今はそういません。それに、こんなに素直で可愛いのに。あっ」

いや違う今のは忘れてくださいと安全確認の為か何かを隠す為なのか外に逸らされた顔、横顔すら見えなくなっても見上げる首元と耳が赤くて、かあと頭に血が上る。

「むくろさ」

「着きましたよはいベルトを外してください。ここ、チョコレートのタルトが絶品なんですよ」

早口で言ってエンジンを切り、そそくさと降りようとする大人の袖口を掴んだ。
仕立ての良さそうなスーツは生地も肌触りが滑らかだったがこれは後になってもどうしても思い出せない、それくらい夢中だった。

「え、えと」

「服が、引っかかっちゃって。はずして、ください」

「べ、ベルトに、ですか」

「はい」

その時どんな風に彼をみただろうか。
大人の、綺麗な白い頬が、半分以上シャツに隠れた首もとが薄暗い車の中でも真っ赤になっていくのが分かる。
どうして相手にされないと思っていたのにこの人はこんな反応をするのだろうか、真っ赤だけれど怒っていない、困ったような、焦ったような。
大人の人なのになんだか。

(かわいい)

心臓がどくんどくんと早鐘を打った。
本当は端っこを少しねじ込んだだけの服をシートベルトから外す間、伸ばされた前髪が首をくすぐって、それから香水なのかシャンプーなのかこの前と同じ甘い香り。
煙草の苦い香りは今日はしなかった。









「おいしい」

ふわあと幸せそうに笑う表情に自分の表情筋までとろけてしまいそうになって慌てて引き締め、よかったですと大人の顔で笑う。
さっきは思わず可愛いなどど思ったままを口にしてしまって、上目遣いで見られたところで顔は沸騰してそのままどろどろに融解していってしまうかのように思われた。
あんな経験があるのだ、恋というのは。
周りからかけられる圧力にもいわゆる危うい橋を渡るという状況でも逆に楽しんでそれ以上の結果を出してきて、当然のようにいくつもこなしてきたのにそれらが全く役に立たない。
そもそも思考能力なんてものが根こそぎ奪われてしまうのだからいくら頭があったって意味がないのだ。
あの水あめのように蜂蜜のようにとろりと甘い瞳にかち合ったら絡め取られてそのまま琥珀の中の羽虫になってしまう、なってしまいたいとまで考える己に慣れず前触れもないのに悲鳴を上げそうになる。
これが恋というものなのだこれでは何もかもおかしく、世界が色を変えるどころかひっくり返ってしまう。
一目惚れの衝撃にただ思い出が美化されて二度目に会えばきっとただの少し自分にとって好ましい部類の子どもであるだけだとそう言い聞かせて今日を迎えたというのに、余裕のあるところを見せるどころか挙動不審な態度に笑われてしまったかもしれない。

「むくろさんは食べないの?」

「あ、いえ。いただきますよ」

フォークを取ったのに瞼の裏には傾げられた首の細さが、白さがちらつく。
全く何をやっているのだと叱責する己がいるのは確かだがほとんどは熱に浮かされたようにやわい肌を想像しようとした。
これではまるきり少年趣味の変態ではないか。
いつもは安らぎを与えてくれるチョコレートの滑らかな舌触りも、濃厚なのにしつこく残らない甘みもタルト生地の香ばしさもこの全身の緊張を和らげさせる手伝いは残念ながらしてくれない。
数少ない骸のお気に入りの一つは一種のトラウマのようになってしまいそうだ。

「あの」

「あ、はい」

「君が良かったら。なのですけれど」

チョコレートが完全に溶けるのを待って、それから一口できる限りの時間をかけて紅茶を飲んでから会ったら言おうと何度も繰り返してきた言葉を確かめながら音にしていく。
馬鹿みたいに震える語頭を唾を飲んで正し、言わなければもう会うこともできないのだと続けるにも多大な労力が必要だった。
拒否されればしばらくどうしていいか分からないだろうけれど、同じ会えないなら理由があるほうがまだ諦めがつくでしょといかにも忌々しいという顔をした友人と呼べるのか腐れ縁の男から貰った一つだけのアドバイスを思い出す。
そうかもしれなかった。
こんな遅咲きの初恋が、しかも一回り以上歳の離れた子どもと呼ばれる人への恋慕が叶う可能性などきっとないに等しいのだろう。
下手をすれば警察に突き出されかねないし、そして何よりこんな強い想いをついこの間逢ったばかりの大人から向けられていると知ったら恐怖を与えて拒絶されることだってありうる。
それに耐えられる自信があるのかと問われれば答えは否でしかなかったがこんな想いは二度と抱くことはないとどうしてか確信していた。
初恋ゆえの妄信なのか今まで全く人間をそういう意味で好んだことがなく、それどころか興味を持つことすらなかったというのに理性の言葉が通じない感情の生き物であるために遠ざけていたはずのいわゆる子どもに惚れてしまったからであるのかは判別がつかない。
どちらでもあるような、どちらもまったく見当外れのような。

「これからも、たまに、一緒にケーキでも」

もう大人でしかも男なのに甘いものが趣味というのはどうにも恥ずかしくて言い出せないことが多くてけれど一人だと寂しいから時間が空くときでいいから付き合ってくれないかとそういう意味のことを早口で伝える。
最後の方は何を言っているのか自分でもよくわからなかった。
顔が上げられずに意味もなくタルトの端を削る。
かちかちと小さな音の間で、更に小さくえ、思わず零れ出たというような戸惑いの声を耳が拾う。

「いえ。無理強いではなくて。今日は、無理に連れてきてしまいましたが」

「そんなこと!おれ、やじゃないです」

今日だってむりじゃないですおいしいしとやや狼狽して必死に伝えるような声に空回りしていた思考がぴたりと止まった。
おそるおそる窺うと驚いたようなすがるようなそうしてどこかほっとしたという表情をしていてよくわからなくなる。
子どもというのは直情だから表情や態度に出やすいものだと思う。
けれど読み取ることができるのはそれぞれ単体のだけで生み出す感情はどんなものなのか合わさって何を表しているのか見当もつかない。

「こんな、歳の離れた男とで詰まらなくはないですか?」

一度の肯定だけでは礼儀正しさからの社交辞令かもしれない、小学生がそれだけのことをやってのけるかどうかなんて知るよしもないがふわりと一気に浮上してしまいそうになる心を押し込んだのはそんな思考で、しかしはっきりと意思表示のために首を振り、おれむくろさんといるのたのしいと言った綱吉のためにあっさりと消失する。

「おともだちになってくれます?」

二十五にもなった男が小学生に対して友達になってくれと申し入れるだなんで随分奇妙なことだけれど今結ぼうとしている関係を茶飲み友達以外で表現するのは難しかった。
骸にしてみればあまりにも不慣れで気恥ずかしく難しい一歩ではあったのだが、もっと上手く運ぶ方法をいくらでも考えられたのではなかったかと言ってしまってからかみ締めるように思う。
友達のままでいたいとは本当は思っていなかったけれど恋人同士の甘い時間というのも経験がないために想像し難く、ただ彼といつでも一緒に過ごすことのできる権利を、抱きしめたらそれを返してもらえる関係が欲しいとそれ以上のところまで思考が進まない。
恋心は圧倒的に骸を支配してはいたけれど渇くような感覚がたぷんと満たされるためにはどうしたらいいのか教えてはくれなくて、ただ離れていってしまわぬように足止めするので精一杯だった。

「むくろさんこそ。おれがともだちでいいの?」

「え」

沈んでいた思考が甘いボーイソプラノで引き戻される。
綱吉はフォークの置かれていたナフキンをぎゅううと皺になるほど握って、少しだけ恥ずかしげに座ったとしても明らかな身長差を顎と目線を上げることで埋めていた。

(たまらない)

かわいい、抱きしめてしまいたいと反射のような論理を超えた衝動はいともたやすく骸を締め付ける。
かちんと音を立てて今度は一口分の少し溶け出したタルトを掬い上げたというのにそのまま、なんかじゃないです綱吉くんがいると僕は嬉しいと口にできる最上を小さく呟いた。
こんなことでは気味の悪い大人としてさっさと愛想を尽かされてしまう。
憧れのような存在であれば色々な場所に連れて行ってと、本当に友人のように気安い存在なら一緒に遊ぼうとそうやって言われるのを望んでいるのにどちらも諦めねばならないだろう。

「おれも、うれしい、です」

もうあうのだめっていわれたらどうしようかとおもったと、そう照れたように微笑む姿を暗めに設定してある店内に差し込んだ薄布のような光が照らしてああこの感覚だと恋に落ちた瞬間が思い出される。
こんな穏やかな時間を過ごせるのなら何を犠牲にしてもかまわないと、同時に穏やかな時間止まりで終わるのかもしれないと思うと辛くてかなわない。
どうしたらいいのだ。
右も左もわからない、迷子になったような心地だった。












おともだちになちました。



20090506