純愛コンプレックス 自動販売機の恋
差し出された小さな手、こぼれ落ちんばかりの琥珀の双眸が己を見上げて柔らかな鳶色の髪がさわりと風に揺れた。
その日六道骸は生まれて初めて恋に落ちた。
「恋をしたんです」
薄暗く照明の落とされたホテルのバーは大きな窓から青や白、時折橙の電飾をいっぱいに湛えた地上を映し出す。
ピアノの生演奏は先ほど終わったところで、バックミュージックとして流れる緩やかなジャズがささやかなざわめきを包み込んでいた。
ボックスのようになったいわゆる上席で片方は仕立てのよい黒のスーツ、もう片方はこれまた一目で上等な黒とわかるがバーよりも料亭が似合いそうな着流しを身に着けた男二人組が大したつまみも頼まず酒を酌み交わしている。
二人のうち長身で長く伸ばしたストレートの後ろ髪をひとつにくくっているスーツの男はよく見れば左右の虹彩が違い、人形のようにあまりにも整った容姿をしており、対して短髪を癖毛なのかセットしているのか柔らかに遊ばせたままの着流しの男は黒々とした瞳が切れ長の目の中におさまり、白い肌も相まってなるほど和服が良く似合った。
商談のように気遣わしげでもなく友人のように気安げではない二人の空気は一種異様でもあった。
「何?君そんな話をするために僕をこんな場所に呼び出したわけ。日本料理屋の個室じゃないと嫌だって言ったよね」
着流しの青年、雲雀恭弥は傾けた冷酒が少し温くなっていたのが気に入らなかったのか眉を顰めて一気に飲み干し、ウエイターに仕草だけで追加を示した。
間髪入れずに新しい徳利が運ばれてきたのはお客が少ないせいばかりではないだろう。
「今度京都のいいお店を紹介しますから。それに、こんな話を君が行くような店のだだっ広い座敷でするのは嫌です」
年甲斐もなく顔を赤くしたスーツの青年は六道骸、今年で二十五歳を迎えた筈なのだが数少ない友人に恋をしたなどとわざわざ報告してくるくらいだからその恵まれた容姿とは裏腹になかなか初心であるらしい。
雲雀は仕方がないとばかりにひとつ息を吐くと美しい箸使いで透き通るように身の締まった平目の刺身を口に含んだ。
口角を少し上げたのでどうやらお気に召したらしい、こういうことは根回しをしておくに限る。
雲雀は食と酒に関しては殊うるさいのだ。
「で。六道はどうして恋をしたなんてことを僕にわざわざ報告しに来たわけ?僕はそういう話題が好きでもないし得意でもない。人類には群れないでいて欲しいからね」
「人類ですか」
「そうだよ」
呆れたように言ってもどこかおかしいのかと首を傾けられた。
それが事実だと思っている雲雀恭弥に物事を納得させるのはただの骨折り損なので諦め、骸はダブルロックのウィスキーで口元を湿らせてから意を決してその言葉を口にした。
「初恋なので、何をどうすればいいかわからなくて」
たっぷり三十秒は沈黙が流れた。
骸の感覚時間ではもっと長かったけれど、実質はそれくらいだろう。
会話途中で手元には煙草も何もないし相手は持ち上げたままのお猪口を口に持っていくことも忘れて固まっているのだから、停止を感じるには十分だった。
「は」
「だから、初恋なんですよ。僕は今日の夕方、初めて恋に落ちました。右も左も分からないので何かアドバイスを」
雲雀はそこで持ったままだったお猪口をついに落とした。
それは大きな音も立てずつるりとした素材のテーブル端をくるんと辿って止まり、けれど零れた液体は着流しを濡らしたようだった。
ウエイターがさっとタオルを差し出したが彼はそれも受け取ったまま目を見開いて骸を凝視している。
いたたまれなくなって目を逸らすと軽い咳払いと汚れたお猪口を取り替えるための僅かな音が鼓膜を揺らした。
「君って、前から女っ気がないから特定のを作らずに適当に遊んでると思ってたんだけど」
「しないですよ。そんなの。あまり必要ないですし」
「不能!?」
「ちがいます!」
プライドを刺激されたのか多少憤慨したようにして骸はちゃんと勃ちますし皮も被ってませんよとぼそぼそ呟いた。
そうして手持ち無沙汰なのかグラスの中の氷をからから鳴らしながら人に触ったり触られたりするのが苦手なんですと今は蓋も閉められたグランドピアノに視線を流す。
「昔から変態に追い掛け回されたり痴漢にも痴女にも遭いましたし、トラウマで。だから思春期はできるだけ目立たないように気をつけて。あと大学から今までは勉強も仕事もそれなりに楽しかったですし」
「近寄ってくる人間なんて全部殴って沈めればいいじゃないか」
「そういうことをしたらクールだ不良だって騒がれてファンクラブだの何だのってできるんです!怖いじゃないですか」
「怖いって君ね。そういうのと恋愛は違うでしょ」
「そうなんですけど。縁がなかったのでしょうね」
しょぼんとうなだれる大きな男を切れ長の目を更に細めてしばらく眺めていた雲雀は、意識的にゆったりと換えられたお猪口に酒を注いでからこくこくこくと三度咽喉を鳴らして飲み干し、それからできるだけ小さく低い声で「それで、どうやって惚れたの」と呟いた。
恐らく雲雀の部下や雲雀恭弥という人物を知る全ての人間が驚愕するほどの譲歩であったので、骸も驚いたようにぱっと顔を上げて「一体どうしたんですか」という言葉を何とか飲み込んだ。
ここで機嫌を損ねるようなことがあればもう話を聞いてくれることも飲みに付き合ってもらえることもないかもしれない。
「自販機で煙草を買おうとしたら小銭が足りなくてですね」
「ああ、君いつも万札かカードみたいな顔しているものね」
「それどんな顔ですか。部下にしか買い物をさせない人間が。コンビニに行こうとしたら貸してくれたんです、百円」
まあ有り得るといえば有り得る、何気ない親切がきっかけで恋に落ちるというのは良く聞く話のように思える。
しかしそれくらいのことで人を好きになるほどこの男は人の優しさに飢えているのか気持ち悪いなとか、相手の女はよほど好みだったのかとかいう考えが一瞬の間に雲雀の頭の中をめぐったが、結局「連絡先くらいは訊いたんだろうね」と言うだけに留めた。
酔いが足りないのかもしれない、料理も酒も申し分がないけれどどうにも気が乗らないのは目の前の男とその話題のせいだろう。
雲雀の言葉に骸はそうかそうすればよかったのかとそのまま顔に書いて口を開けていた。
まったくこんなところでなければ蹴り飛ばしたいくらいのアホ面だと一つ息を吐き、口寂しくなって奥歯で舌の端をすり潰す。
「通学路で、同じくらいの時間に返してって言われたので。名刺は渡しましたけど」
ぼんやりしたまま呟かれた骸の言葉を一瞬理解することができず、ふうんと言って小鉢の料理を摘んだ雲雀はそれを飲み込むと同時に咳き込んだ。
どうやら気管に入ってしまったらしい。
間髪入れずに水の入ったグラスが運ばれてくる。
ここのウェイターは真実優秀だがこの店に一人で来ることはやはりないだろうなと関係のないことを考えながらそれを一気にあおり、取りあえず呼吸を落ち着かせる。
それがサービスで、控えめであっても観察されているという事実がなんとなく雲雀の背筋をざわつかせた。
「きみ、がくせいに、てを」
風紀が乱れる、という自身が学生時代に群れを散らす際に使っていた常套句を思わず呟きそうになってしまう。
乱れるどころか通学路があるような年代に手を出すことは雲雀や骸の年齢では犯罪ということになる。
「出していません。一目惚れしただけです」
今はまだ、と顔を赤らめる二十代も半ばになる細身だが雲雀よりも長身の男、可愛らしいとも思わないし同情も全く感じないが少しだけ哀れだと、憐憫の情を持たない事も無かった。
造形美といえるほどの顔とスタイルを持ち、勉強しか打ち込むものがなかったせいかもしれないけれど高学歴で社会的地位も金もある。
そんな誰もが羨むであろう六道骸という存在は蓋を開ければただの童貞ロリコン男でしかなかったというのはなんとも滑稽なことだ。
そこまで考えたところで雲雀ははたと気が付いた。
「ねえその一目惚れした子っていくつなの」
高校生ならばまだ救いようがある。
その子どもが十八歳を過ぎれば誰に咎められることもないし、成長すれば歳の差も大して気にならなくなるだろう。
幸いにして骸は容姿だけは端麗だから希望が全く無いとは言えない、むしろその年頃の子どもというのは往々にして魅力ある大人の男に憧れるものである。
しかし中学生ならという可能性に思い至って雲雀は苦虫を噛み潰したような顔になる。
一般常識に照らし合わせた結果などではなくただ単に面倒事を厭う性格からで、中学生相手の恋愛アドバイスなどできるはずもないしまさか成長するまで律儀に年上の優しいお兄さんを演じて待っていろなどとは言えない。
言ってしまったが最後この男はそれを実行に移して何かある度逐一雲雀に報告や相談に来るに決まっている、そんなのは鬱陶しい。
特定の人間と長い付き合いをするということは部下である以外にほとんどないし、この六道骸という人間は雲雀が知る限り自分が好むものや大切なものに対してはこれでもかというほど粘着質なのだ。
いくつ下かは知らないが妹に近づく男共をことごとく沈めているというのは雲雀の耳にも届いていた。
妹の方もかなりのブラコンらしいから今の所問題になっていないが、もし兄さんより大事な人ができたのなどと言って誰かを連れてきたときにはどうするのか。
閑話休題、先ほどの質問から男は気まずそうに視線を逸らしている。
まさか悪い方の予想が当たってしまったのだろうか。
「―――を―――て」
「は?」
気が付けばまた生演奏が始まっていた。
今度はピアノではなくチェロで、それほど大きな音でもないのに骸の声はほとんど聞き取ることができない。
おそらく先ほどより随分小さい声だったのだろう、聞こえないと少しばかり身を乗り出すと相手は――雲雀にしてみればこう表現するのは大変不本意なことではあったが――恥らうようにああもうと何度か首を振って意を決したように言った。
「だから、ランドセルを背負っていました。あと色は、黒です」
予想が当たったどころの話ではなかった。
つまり、初恋の相手は小学生で、しかも一般的に考えて背負っているものの色が黒ということは男子である。
雲雀はとりあえず優秀なウェイターに、この店で一番いい日本酒か焼酎を持って来いと告げた。
「むくろ、さん?これむくろ、って読むのか」
綱吉は成績がいい方ではなかった、というかすこぶる悪い方だったが、クラスで百点を取る子でもこの漢字を読むことはできないだろうなと思った。
思うと同時にとても嬉しくなって長方形の小さな紙を持ったままえへへへとベッドの上を転がる。
貰った小さな紙には三文字の名前とは別に肩書きやら電話番号やらが書いてある、いわゆる名刺というやつだった。
裏側には咄嗟に書いたからか少々乱れた筆跡で携帯電話の番号もある。
会えなかったら電話を下さいねと渡されたそれをどこにしまおうか、ほとんど小銭しか入っていない小さな財布では角が折れてしまう、机の上や中ではいつか失くしてしまうかもしれない。
ずっとこの手に持っていたかった。
(きれいな人だったな)
色違いの瞳には驚いたけれど真っ白な肌と長い睫毛で映えるそれは吸い込まれるみたいで、長い髪の毛はきらきら青色に反射していたような気がする。
小さな綱吉が差し出した百円を受け取るために屈んでくれて、必ず返しますとにっこり微笑んでくれた。
返してもらった後も電話したり、会ったりしてはいけないのだろうかと綱吉は心臓をどきどきさせる。
見とれていた間に嗅いだ、あの甘いような苦いような柔らかな香りがするような気がして綱吉は持っている紙にそっと鼻を近づけてほうと一つ息をついた。
子ども×大人と次は大人×子ども…すみません。珍しくシリーズ名ありです。
20090402