雨天時における熱伝導の可能性











雨のにおいがする。
そう思って意識を浮上させかけた藤に聞こえたのは窓ガラスを叩くのではなく撫でるように降る雨の、その降り始めに似ている小さなぽつぽつとした声だった。
誰なのか知っている、そして自分が寝ている場所のことを考えれば聞こえる話し声などほんの一握りの人間のものでしかないのだけれど、一握りでも騒がしいはずの音が小さく二人分であることは珍しいのではないかと、声の主を特定するよりも先にぼんやりと思考する。
天井が白ではなく灰色の影になって薄く開けた瞼の向こうに見えた。
気を使ってこちらの方の蛍光灯を消しているのかもしれないと合理的な解答だけ別の脳が考えたようにはっきりとして、半分眠ったような頭はまだ惰眠を欲しがっている。

「止まないですね、雨」

それだけはっきりと耳に入って今何時だ、結構暗いなと、それからまた開きかけた瞼を下ろした。






「止まないですね、雨」

呟いたアシタバは咄嗟に自分が「止まないといいですね」と言ったような気がして心臓をまもる肋骨あたりの筋肉を引きつらせる。
もちろん実際に言ったわけではないから相手の、今お茶を淹れ直そうと立ち上がった養護教諭の返答はそうだね、と普通のものだった。

「さっき帰ってしまった方が良かったかもしれないよ」

やはり傘を貸そうと申し出るハデスの言葉を必死で辞退する。
台風の日に登校してきて風邪を引いていたハデスを知っているアシタバは一つだけというその傘を借りて帰ることには気が引けた。
夜は曇の予報だったから通り雨かもしれない、あるいは保健室に入り浸っている誰かのうちの一人が置き傘でも持っていて一緒に帰ることができるかもしれないという当てはすっかり外れてしまった。
帰る間際に押し付けられた委員ではないはずの委員会の仕事で遅くなったせいで教室には誰も残っていなかったし、普段から人のいない保健室はさらに閑散として、弱いから大丈夫だろうと踏んでいた雨は土砂降りとは言わないまでも帰る頃にはぐっしょり濡れてしまっているだろうと思えるほどには成長してしまっていて。
辛うじて藤だけがまだ寝ているらしい。
あのお菓子を隠した棚の中に傘はあったろうかと考えていると雨宿りしていくかいとお茶を勧められてそのまま椅子に座った。
季節は秋で、冬はまだ遠いと思っていたのに雨が降ると途端に空気が冷たさを増す。
生姜が入っているというミルクティーは少しぴりりとした癖があったけれど気付かないうちに冷えていた身体を暖めた。
今度は何とかというハーブティーらしい。
お茶の葉の名前はアシタバにはいつも判別が付けられなかった。
かろうじてシンヤが目の前の教諭のためと覚えようと口にしていたアールグレイやセイロンなんかの言葉だけ耳に残っている。
それらがどのような味なのか区別はつかないし飲んだことがあるのかどうかすらわからなかったけれど。

「藤くんは、今日は起きるのが遅いね」

「いつもは」

「もう帰っている頃じゃないかな」

「そうですね」

時計を見上げる後頭部を見るともなしに視界に映す、色素の抜け落ちたような髪が肩の辺りでくしゃりと縮まった。
とぽとぽ、とお湯を暖めたカップに注ぐ音が雨に混じって聞こえることがどうしてか少し新鮮だった。
いつもは誰かしらがやがやと会話をしている。
お茶は気付かないうちに継ぎ足されている。
茶葉を計る手元もお茶を丁寧に注ぐ様子も背中越しにしか見たことはなかった。
目の前で淹れてほしいとは言えない。
お茶の勉強がしたいと言っても、純粋に興味があるのだと言ってもきっと信用して嬉しげに披露してくれるのだろうけれど、どちらも本当のことではないし、本当の動機はどうしたって言えるものではないからきっとずっとこのまま背中を眺めて待つのだろうなと思う。
差しだされたカップは暖かそうに湯気をふんわりと立ち昇らせている。
ミルクを入れられた色ではなく焦がしたような琥珀色はまだ熱湯より少し低いくらいの高温だろう、ふう、と息を吐いた。
あまり意味のないことだとは分かっていても上った白いかたまりを湿気の多い空気に飛ばす。
ハデスはアシタバが座っている背のある長椅子には座らず自分のものを立ったまま薄い唇で躊躇わず飲んだ。
皮膚は薄そうなのにとひび割れた肌から勝手に猫舌を連想していたことに気付く。
生徒のための席だと、空けることばかり考えられている椅子に自分ひとりだけだということが心もとなく、数センチだけ端の方に動いた。
景色はほとんど変わらない。

「これ、終わったら帰ります」

「でも、傘は。アシタバくん」

「大丈夫です、多分。暗くなって帰るよりはいいし」

最近は日没が早い。
雲に覆われた空はもう薄暗く、半分だけ明りの灯った保健室もそれが届かない場所は暗かった。
藤が起きないのも重く変わった空気と、この照明のせいではないかと思える。
保健室を居心地の良い空間にするという試みはある一部では成功している、正しいのかそうでないのかはアシタバには判断がつかないから困ったような笑みにかわる。
ゆっくりと喉を過ぎて行ったハーブティーは想像したより熱かったからそっと机に置いた。

「口に合わなかったかい?」

「い、え。まだ熱くて」

美味しいか美味しくないかと言われれば熱いというのと鼻にすっと抜けるような香りしかわからなかったから感想を求められればそれはそれで困るなと考える。
舌の上と上顎がじんと痺れていた。

「大丈夫かい、火傷は」

「あ、いいですいいです!してません、火傷」

焦ったように炎症用なのか軟膏を包帯や何かが入れてある籠から取り出したハデスに慌てて両手を振ってみせる。
目を見開いた顔に心臓を跳ねさせて冷や汗を流す身体は怖がっていたときの反射か、次の瞬間には顔が近いと思った。
口を開けてと言われて今度は呼吸が止まる。

「し、してませんから」

「一応みてみないと、口の火傷はすぐ治るけれど皮が剥けてしまうこともあるし、今日一日は痺れているかもしれない」

舌と上顎に感じる僅かな痺れよりも心臓から急に血液を送られた頭の骨の方が瞬間的に、骨ごと殴られたようなその直後のような振動を脳まで伝えたのだけれど、明らかに赤くなったであろう頬も、動揺して眉根を寄せ、しかし眉尻は下げて半ば泣きそうになったような表情も、ハデスの目には止まっていない。
見開けば恐ろしい、ホラーだと言われるそれはアシタバの震える唇に注がれている。
生徒のことを何より考え、優先するその姿勢は的を射ているかと言われれば病魔以外のこととなればどうやらそうでないことの方が多いから悪気はないのだとは知っている。
知っているけれど察してくれ、早く離れてと赤血球はこれでもかと送られているのに酸素の足りない頭がそれだけ必死に訴えている。 自分の表情がなにを語っているのか悟られてしまったのならそれはそれでまずいことにはなるというのは今のアシタバの思考からはすっかり抜け落ちていた。
あーんして、なんて小さい子に言われるように低い、同じような年齢のなかで過ごせばあまり聞くことのない皮膚から体の内側を揺するような声が鼓膜を震わせて、もう勘弁してとついにぎゅっと目を瞑った。

「いい、ですって」

ざら、と舌でなぞった上顎は普段とは違う鈍い感覚でやはりハデスが言うように火傷をしてしまっているのかもしれない。
しかし日常生活でもこの程度の火傷は放っておく。
口の中に軟膏の類を塗るのはひどく不愉快だし物を食べればすぐに落ちてしまう。
それにハデスが言ったように一日、たった一日我慢すればいい。
皮が剥がれてしまったとしたってせいぜい二日三日、じわじわとした不快感に耐えている方がいきなり与えられる衝撃に耐える数十秒よりましだと呼吸もままならないまま思う。
実際に今は目を瞑ってから数秒も経っていないのだろう、それでもまだかまだかと永遠のように長いと感じている。
間近で感じる想い人の呼吸に、声にそれに反応して大きく脈打つ心臓に慣れないアシタバは無意識に少しだけ身を引く。
人を好きになるのは憧れに似た、高嶺の花を愛でるような気持ちになるのだと思っていた。
少なくとも今までのアシタバの恋は、あたりまえのように可愛い良く笑う女の子を無意識に視線で追うような恋はそんなものだった。
もちろん話しかられれば緊張もしたし顔だって真っ赤になっただろう。
それでもどもる声を、緊張でぴんと伸びてしまう背を誤魔化すように苦笑するくらいのことはできたような気がしたのに。
身じろいだアシタバに、敏感な長椅子の合皮がきゅ、と湿ったような音を立てた。

「そうかい。では痺れたり痛くなったりしたらこれを塗っておくといい」

すう、と頬の辺りを冷たい空気が撫でていったような気がしてはっと目を開ける。
もう顔は近くはなかった。
代わりに差しだされた小さなチューブ型の軟膏をほとんど意識の外で受け取った。
あまり使われていないのがわかるように少し重い。

「え。これ、備品じゃあ」

「怪我をしたら絆創膏を貼るだろう。絆創膏も備品だ」

「そうですか」

ありがとうございます、とぎこちなく言って手の中のそれを転がすように握る。
まだあたたかい、と錯覚して指先が僅かに震えた。
一瞬冷えた頬がまた熱くなる。
身を縮めてはた、と上靴でリノリウムの床を叩く。
雨より小さな音がした。

「少し、弱くなってきたかも知れないね」

耳を澄ますようにハデスが言って、まだ呆けた頭だったアシタバもはっとする。
今度こそ帰りますと言いかけたところでしゃあ、とカーテンレールが音を立てた。
ふあ、と大欠伸をして伸びをする藤に蛍光灯の光が僅かにかかっている。

「藤くん」

「なんだアシタバお前まだいたのかよ」

「うん。ごめん傘持ってる」

「は」

かさ、傘と呟いてがらりと菓子が隠してある棚を開く。
寝起きで動作が乱雑になっているのか半端に開いた戸から入れにくそうに腕を伸ばして何やらごそごそと探っていたかと思うと紺色の折りたたみ傘がベッドの上に投げられた。

「早く言えよ」

「いや、でも寝てたし。やっぱ一つしかないかな」

「んや」

ベッドの背の裏を覗きこんだかと思うと今度はビニール傘が出てきてぱしと床を叩いた。
アシタバの上靴より良く響くプラスチックの音だ。

「お前これ使え」

「あ、よかったありがとう」

「ここ置いとくからなかったら勝手に取ってけ」

「うん」

確実に保健室を私物化している藤を可笑しく思って笑う。
ハデスの言ったように雨は先よりも勢いをなくしているらしかった。
冷たくなければいいと思ったけれどこの季節に降る雨はやさしいくとも暖かくはない。
やっとおさまった動悸に息を吐いて、指先を暖めるのはもしかしたら生姜入りのミルクティーかと熱の移ってしまったチューブを転がして呼吸を止めていた名残のように唾を飲んだ。
口の中はやはりすこし鈍い痺れと、いやにがさがさした感触とを伝えている。
よかったと聞こえた声にやっとハデスをいつものように見ることがてきた。
できたといってもまた熱が上がってしまいそうで顎よりも下ばかりで視線をうろうろさせて、薄い唇が気をつけて帰りなさいと動くのを確認するばかりなのだけれど。
立ち上がってもう一度伸びをする藤に帰ろう、と言った。

「ああ」

薄い鞄を掴み、だるそうに欠伸をして歩いてきた藤が左手で差し出した傘を、チューブを持っていない同じく左手で受け取る。

「それ、飲んでくのか」

「あっ」

テーブルにぽつんと残されたマグカップの中身はまだほとんど手つかずだ。
もう冷えてしまっているかもしれない。
先に行っててとそう言って慌てて取っ手を指にひっかけるようにして持ち上げて口を付けた。
ハデスのあ、という声を聞いたような気がする。
紅茶を味わうには適温か少し低いくらいの温度でそのまま飲むことができたけれど、やはり先ほど痺れた部分はちく、ちくと痛んだ。

「ゆっくり飲めなくてすみません」

「いや」

大丈夫だと見せるように最後まで飲んで、それでもろくに味わうことができなかったのは残念だから今度また同じ茶葉で淹れてもらおうと思う。
ハデスは今日のことも、きっと昨日のことも、生徒に関することなら覚えていてくれるだろう。
そんな彼を知っている生徒はあまりいない、そして気にかけているとなるともっと少数だ。
ちいさな優越、そうやって慰められる心も初めての恋は自覚すればちょうど火傷に似て、じんじんとどこか心臓に近い部分をくすぶらせる。
近づけられた顔を思い出そうとして、けれどやっぱり息が止まってしまうと振り切るように、急ぐふりをして立ち上がった。
藤は廊下に続く引き戸を開けはしたけれど動作はゆったりだからおそらく待ってくれているのだろう。
チューブは鞄を持つためにポケットに入れた。
すとんと落ちたその重さを帰り道ではずっと感じているのかもしれない。

「じゃあ、あの。先生も気を付けて。雨降ってますから」

「風邪を引かないようにね」

「はい」

また明日、と言い交して早足で出た廊下は点灯している照明も減って、妙に暗い。
湿気を濃くした空気を吸い込むとまた軽いやけどが痒みに似た疼きをちりちりと伝えた。






がらりと締められた引き戸にやっと息を吐く。
外はもうほとんど日が落ちたような明るさだが藤のためにと落とした照明を点ける気にはならなかった。
この時間ならば教員たちもそろそろと帰り支度を進めるだろう、もし利用者が居ればと終業時刻のぎりぎりまで人を迎え入れられるようにしてはいるけれど可能性のほとんどである生徒はたった今ので全員、おそらく帰ってしまった。
はたはたと二つ分弱い足跡が遠ざかるのを聞いて、無意識のうちに空にしてしまった自分のカップとテーブルの上に置かれたままになった同じような形のもう一つを見る。
近付いて覗きこめば慌てて飲んだせいか手に持ったものより多めに琥珀の液体が底に薄い膜を張っていた。
上下していた白い喉、まだ喉仏もはっきり浮かばない首元を思い出して罪悪感に視線を逸らしてから持ち上げる。
熱を残していた陶器はいつでも大して温度の高くない指先をじんとくすぐり、またきゅっと結ばれた薄い色の唇がちらついた。
心配だったのも、養護教諭であるにも関わらず火傷をさせてしまったとひどく慌てたのも事実だったけれど、身を引かれてはっと思ったのは拒絶されるか否か、ということだった。
怖がらせてしまったかもしれない。
それでも睫毛が上を向くほどぎゅっと閉じられた瞼に、寄せられた眉根に、動揺させてしまったのか赤くなった頬に、その一つ一つに丁寧に視線を這わせて見つめたいと一瞬考えたことは事実だ。
よぎった気持ちに耐えかねて身を引いた。
ほっと吐かれる息をひどく気にしてしまう。
カップと一緒に温度を下げていく指先に、それでも流しに持っていく気にはなれずに照らされた分だけ雨を見せる窓の外を見た。
きっと廊下から運ばれてきたのだろう、雨の匂いがしている。









あさやんへ!いつも遊んでくれてありがとう!!な気持ちを罰ゲームついでに。
ハデ→←アシ←藤のつもりだけどどうなんだろうぬるくてすみません。口に合えばいいな!遅くなってごめんねだいすき!ホケガミが、あとハデアシが広まることを祈って捧ぐ。



20091124