あまいお菓子を

アヤヤコ! 多分ネウロがいなくなってちょっと後くらい。








すっと伸びてきた華奢な右手がはらりと一房落ちた明るい、日に透かせば色をなくしてしまうかのような髪をすくって納まるべき耳の裏にかけた。
切りそろえられた爪のほんの一部が肌を擦ったから、弥子はくすぐったさと、それからその動作に対しての恥ずかしさとで少し顔を赤くして俯く。

「あの、アヤさん」

「なあに?」

目の前に座っているのは大袈裟でもなんでもなく世界がその歌声に魅了される歌姫アヤ・エイジア。そして二人の人間をその手にかけて殺した犯罪者の逢沢綾、二つの名前は同じ人物を指していた。
今は大きなサングラスをかけていてその表情の細かい部分までは分からないが弥子がその名を呼べば甘く見とれてしまいそうな笑顔で優しげな視線を送ってくれる。
休日のファミリーレストランは中途半端な時間だからかさほど混んでおらず、だからといってしんと静まり返っているのでもなく心地よいざわめきがふらふら押しては引くようにしていて居心地はよかった。
例えば弥子一人や親友の叶絵と二人なんかであれば。
弥子に視線を注いでいるのは彼女一人で話しているのならそれも当然と周りには見えただろう。
しかしさすがは人を魅了する力を持ちそれを商売としてきたその視線の引力というのか圧力というのか、大砲を至近距離で向けられているようで合皮のソファに落ち着いたはずのお尻の辺りがむずむずしてくる。
それに勘付いてか更に優しげに破顔してくれるものだからどうしてかまた頬には熱が上ってしまって慌てて氷も半ば溶けてしまった水を飲む。


彼女は随分自分に甘い。
弥子はそれを自覚していた。
相談に行けば助言をもらえたし勇気付けてもくれる、そうして本当に助けて欲しいと思ったときにはあっさりと牢獄から出てきて手を差し伸べてくれるのだ。
これ以上ないというくらいに。
甘い。蜂蜜だ。いや気の抜けたコーラだ。輸入品のチョコレートだ。ああまずいお腹が空いてきた。
もちろん一から十まで全て助けてくれるわけではないけれどそれでも、論理的な推理能力や知識に欠けていたとしても人の機微や想いを敏感に感じ取ってしまう弥子にとっては十分すぎるくらいの手助けで、時には目の前の霧が一気に晴れたような気さえする。
だからこそこんなときにはどうしたらいいのか戸惑ってしまうのだ。
綾は何を求めてそんなに優しくしてくれるのかと疑問が頭をかすめる。

「言いたいことがあったら言ってもいいのよ?ああ、お腹が空いた?ごめんなさいお金をあまり持っていなくて」

おごれないのよ。犯罪者だから。
弥子ちゃんにはいっぱい食べて欲しいのだけれどなんてやっぱり甘い。

「いえ。さっき食べましたし」

弥子にとっては腹五分にも満たない程度だったが店員が何度かひいひい言いながら食べ終わった皿を片付けるくらいには胃の中に入っている。
この辺の食べ放題の店はほとんど立ち入り禁止になってしまったため普通のファミリーレストランである、女子高生探偵桂木弥子の宣伝効果も店の仕入れ品を全て食べつくされることで掻き消えてしまうらしい。
相変わらず食欲を他の何より優先してしまう。
きっと一生このままなのだと思ったが、美味なるものを崇拝し食べつくすことを至上の幸福としている弥子に悲しむ要素はなかった。

「事件のこと?でも探偵さんならそんなに心配することもないかしら」

「はい。今回は、なんとかなりそうな気がするんです。あと少し確かめたいことはありますけど」

今弥子が依頼を受けて調査をしている事件は犯罪性が強いというよりも小さないざこざや誤解が軋轢を生んで事件の形を成してしまったもの、明確な犯人像が結べず関係した多くが加害者となり被害者となるような、警察権力よりもまさに探偵に向いた仕事だったから難解さの中にも光明が見えている。
午前中は何人かの家を回って、腹ごしらえをしたら午後から整理してそれでなんとかなりそうかなと思っていたところに唐突に綾に声を掛けられたのだ。
びっくりした、なんてものではない。
一瞬声を失って、それから悲鳴のように名前を呼びそうになったところでしぃっと口元を押さえられそのままにこにこと入ろうとしていたレストランに連行されたのである。
店員も一瞬首を傾げたが、あの衝撃的な事件はすでに人々の間からは忘れ去られているようで「あれ、もしかしてここら辺を荒らしまわってる大食い探偵の桂木弥子じゃない?」とひそひそ囁く声が耳に入っただけ。
そんな俗称を望んだことはないけれど世間ではすでにそういうことらしい、しかも荒らしまわっているつもりはなくただ空腹を満たそうとしているだけだというのに。
いつまでも女子高生ではいられないからそれでいいのかもしれないけれど、いくら食べても腹が膨れないと言っていた相棒のことを頭の隅で想う。

「あの、それなのにどうして」

「ああ」

やっと得心がいった、というよりもようやく訊いてくれたというように綾はいつもの微笑みよりもう少しだけ口元を吊り上げて、大人の女性の笑みというよりも悪戯をしかける子どものような目をサングラス越しに覗かせて勿体つけるように、それこそ歌うように言った。

「それはね。私が探偵さんに会いたかったからよ」

「へ」

「だって最近全然来てくれないんだもの。それに鬼の居ぬ間に、よ」

最後のところはよく意味がわからなかった。
しかしそのことよりも今この人はとても怖いことをいわなかっただろうかと弥子は背筋にたらりと汗を流す。
もう外は夏を間近にして店内にも空調がこれでもかと効いていたから暑くはない、だからこれはいわゆる冷や汗というやつで怪談を聞いた後のような寒気が肌を撫でていくようだ。
固まる弥子に反して綾は優雅に、しゃらりと効果音の付きそうな動作で軽くウェーブのかかった髪をかき上げて休日だからか人通りの多い街にちらりと視線をやる。
一瞬光を集めた双眸が長くカールした睫毛の下から弥子を見つめる。
それだけだとまるでできすぎた映画を観ているみたいだった。

「ふふ。そんなに怖がらなくてもいいのよ。私が寂しさを感じるってことまだ孤独だということ。その寂しさも歌には必要なことなのよ」

逢沢綾という人間を弥子はあまり良く知らない。
とても大人で、時々お茶目で人をからかうことも好きらしいけれど、ブラックなのはジョークなのか本気なのかそれくらいのぎりぎりの所がすきなのかたまに背筋がひやりとすることがあるけれど知っているのはそのくらい。
しかし歌い手としてのアヤ・エイジアならば、その歌がどんな人の心に響くのかその脳を揺さぶるのか何を求めているのかは分かる。
絶対的な孤独と暗闇の中で一人きりで歌うこと。
彼女はそのために自分を励まし、勇気付け、誰より応援してくれていた二人を殺している。
逢沢綾が満たされてしまうということはアヤ・エイジアが死ぬことだ、弥子も一度だけ警笛を鳴らされたことがある。もう近づいてくれるなと。

「それで、アヤさんは私に何を」

あなたのせいで歌えなくなったから死んでと言われれば全力で逃げるしかない。
申し訳ないが弥子にはやりたいこともやるべきこともまだたくさんあるし、何より全国の、世界の美味しいものを食べつくしてはいないのだ。

「ふふ。探偵さんの考えているようなことじゃないの。ただ確認したかっただけなのよ。あなたがどこに向かっているのか」

「どこに?」

「探偵業も順調みたいだし、目標を見失っていることもないみたいだから残念だけど私の出る幕はないようね」

綾はそこでやっと視線を外して頼んでいたコーヒーを一口だけ飲んだ。
冷めちゃったわ、と魅力的に肩をすくめることも忘れずに。

「心配してくれたんですか」

そっと窺うとそんなに殊勝なことじゃないのと笑われて頭を数回撫でられる。
姉でも、親でもなく友達のようでもないこの距離感はどういうものだろうかとしばらく考えたけれどどれもしっくり来るものではなかった。

「弥子ちゃんが弱ってたらつけこむつもりでいたのよ。それって役得じゃない?」

くすくす笑って言われたけれどそれではまるで。
いやいやと弥子はよぎった考えに自分で首を振る。
この手の直感をあまり外したことはなく探偵業ではむしろそれを大事にしているのだが今回ばかりは間違いだろうと蓋をしておくことにした。

「でも、ありがとうございます。あんまり刑務所の人たちを困らせないでくださいね」

「ええ。そうね。楽しいけれどほどほどにしておくわ。あ」

今度またアルバムが出るのと言った綾はナフキンを取ってタイトルと発売日を走り書きして弥子に渡した。

「本当はあげてもいいのだけれどきっとあまり会うこともないだろうから。お小遣いに余裕があったら売り上げに貢献してちょうだい」

「はい、でもアヤさんが出てくるの大変なら私が」

ナフキンを受け取りながら自分が尋ねることを申し出た弥子に綾は迷わず首を振ると溜息とともに零れるような、しょうがないわねという表情をしてからやめておいたほうがいいわときっぱりと言う。
明確な拒絶というよりもどこか幼子を諭すような、かと思えば少し寂しげなものだった。

「私のところに来てはだめよ」

本当にあなたはいい子ね、だからすきよと髪だけでなく頬や首筋にまで指先がたどる。
それはさきほどのただ優しく甘やかすものではなく何か内側にあるものをくすぐるような意思を持っている気がして、弥子は思わずひく、と肩を震わせて身を竦めた。

「あら、可愛い」

「もう、アヤさん」

からかわないでくださいと抗議すると可笑しげに目を細められくちびるだけでまたねと告げられる。
艶やかなそれが動くさまがどうにも誘うような色を帯びているから同性ながら見てはいけないものを見た気がしてどぎまぎと視線を逸らす。
その間にアヤはごめんなさいこれだけだけれどとコーヒー一杯にしては随分多いお金をテーブルに置いて立ち上がり颯爽と出口へ向かおうとしていた。

「あっ、えっと。あのっ」

大きな声で名前を呼んでもいいのだろうかと戸惑っているうちに彼女のぴんと伸びた背中は自動ドアを隔てたところにあって開きかけの唇が行き場をなくす。
感情のやり場をなくしてなんとなく光沢のあるテーブルの表面を撫でているとコンコンとガラスの大きな窓がノックされて、見るとサングラスをしていない美貌がすぐ側にある。
サングラスをしていない。
顔を覆うものがなくてはと慌てて掛けることを促す弥子をからかうようにひとしきり笑って最後は投げキッスまでして、踵を返した彼女はすぐに雑踏に紛れて見えなくなってしまった。
現れたのも突然だったけれどいなくなってしまうのも突然だったから、随分もやもやとしたものが胸の辺りに残った弥子はとりあえずそのもやもやを押しつぶそうといくつかの大皿料理を注文することにする。
店員がいやな顔をするだろうけれど仕方がない。
そうしてついこの間まではこうやって自分の中を好きなだけかき回して勝手に去って行くやつらばかりだったと、昔を懐かしむような、と同時にあまり見たくもない最近のアルバムを見るような気持ちで弥子は自分が関わっていた事件の数々をさかのぼる時間をいつもより少しだけ多く作ったのだった。










アヤヤコってこんな感じ?すきだけど振り向かないで欲しいアヤさんと、無意識に気付いててもさわらないようにするヤコちゃん。好きなのにマイナーっぽいのでまた書きます。



20090622